間違えた理解者

統合失調症発達障害の二次障害なんかで、一番の問題は実はストレスや緊張を与える人間ではなく、「間違えた理解者」だと思う。
 
かつて店の嬢で突然統合失調症のような症状を発症した子がいた。当時20歳くらいだったと思う。10歳年上の無職の彼氏がいて、何度も自殺未遂するのをいつも心配していた。長年無職だったせいで金にも困っている男で、恋人である嬢が支えていた。俺にはかなりハードな生活に見えたよ。暴力こそないものの、毎日が戦いのようだった。
 
嬢自身は元々気が強く、いつも明るい子なのでウツなどは心配ないと思い込んでいたのは若かった俺の無知に過ぎなかった。ある日突然、嬢自身が悲観的になったり攻撃的になったりするようになったんだ。
死ぬと言ってキッチンの包丁を手に取ったり、アキラはなんで私を理解してくれないのかと強く責めたりね。ある日突然性格が変わってしまった。今思うと統合失調症の急性期だったんだと分かる。
 
俺は彼氏がストレスを与えたせいだと思った。俺も腹が立ち、彼氏にはもう会うな、別れろと言った。無職のキチガイは捨てろと。
本人も素直にそれに従い、メールだけで彼氏と別れることになった。メールの文面すら俺が考えたほどだ。
 
メシの支度や買い物も、俺やスタッフがアパートに行ってお世話するようになった。きっとストレスからだろうと思って、部屋も掃除してあげたり、買い物もしてあげたりしたよ。
でも日増しに元気がなくなっていき、とうとう仕事をするのも難しくなっていった。幻聴や幻覚がひどいと言うので俺が実家に身を寄せるように言って、車で送って行った。
実家は隣町のあまり豊かに見えない住宅地の一角にあった。そこに母親が一人で暮らしているという。母親もまた無職だった。
 
母親は娘が風俗嬢だと知っている珍しいケースだった。無理もない。娘から仕送りを受けて、細々と暮らしていたので娘の仕事に口は出せなかっただけだ。
その当時まだ40代半ばくらいの母親はとても優しい人で、娘に対してゆっくり休もうねと声をかけていた。
今まで頑張ってきたので、ゆっくり甘えさせて下さいって俺は言った。
「甘やかすのは得意です」と母親は笑った。
 
それから俺も心配だったので、定期的に母親に電話して近況を聞くようになった。もちろん風俗嬢なんてカスみたいな仕事はもう辞めた方がいいし、これから社会人として就職して自立することにはなるんだけど、俺も何かしてやりたいと思っていた。
 
症状について俺もあちこち調べたら、統合失調症かも知れないと分かった。突然の急性期があり、ぐったりする消耗期があり、次第に回復期に入り社会復帰する。脳の機能障害であり投薬で治療できる。基本的に育て方や家庭環境、生活環境が原因ではない。
治療にはとにかくこの症状を医学的に捉えて具体的に治療することが必要。
 
ところが優しい母親の方が次第に消耗し始めていった。
母親は、娘がまだ幼い頃に離婚したのが原因ではないのか、嘘をつく娘に強く叱ったことがあるのが原因ではないのか、お金に困った時期があり我慢させたせいではないのか、など自分のせいにし始めていた。
そして、急性期で性格が変わってしまった娘を見て、「人生に対する怒りに震えています」「私と元夫との関係性の犠牲者になった」などと、感傷的な解釈を入れ始めていた。
 
実は母親はうつ病で、現実を具体的に捉えることが苦手らしかった。娘に対してとにかく感傷的な解釈を入れる。
心が泣いているとか、運命とか、宿命とか、メンタルとか、そういう言葉が並んでいた。
 
母親が通院する病院で投薬を受けて家で休んでいるとは聞いたが、この家は母親に問題があるのは明確だった。それも母親が自分で考えていることとは違う問題が。それは、「間違えた解釈で支援をしてくれる理解者」という問題。
 
これは危ないかもなと思ったが、俺にはどうすることもできなかった。
 
それから半年が経ち、嬢にメールをしてみたらエラーになって戻ってきた。SNSがある時代ではないので、連絡の取りようがない。どうも嫌な予感がして、何度か家の前まで行ってみた。彼女が乗っていた黒のプラドはもうそこにはなく、母親の色あせた古いフィットが停まっているだけ。
 
半年で症状が全快するとは思えなかったし、あの状態でどこに言ったんだろうかと俺は不安に襲われたが、どうすることもできず忘れることにした。
母親に連絡すると、まるで見当違いの感傷を吐き散らかすだけなのが分かっていたから、それはしなかった。
 
ため息が出た。当時の俺は次々に不幸になっていく嬢を目の当たりにして、「俺のせいなのか」とさえ思うことがあった。俺もまた、感傷的な解釈を入れる癖はあったのかもしれない。
でも、これだって俺のせいじゃない。
人それぞれが持つ病気や、性格、物の見方をたどって人生を送っていくと、アキラという男にたどり着き、そしてそのまま遠くに消えていくだけ。俺が何か影響を与えたとも言えるが、実はなんの影響も与えていない。そう思うことにした。
 
それから一年が過ぎて、その母親の家は売家になった。当然自宅の電話番号もなくなっていた。嬢のその後のことも全く分からないまま。
きっと、統合失調症も全快しないまましんどい人生を送っているだろう。アキラという男を恨んでいるかもしれない。何か違う幻覚を見て、俺に対して怒りを持ったまま生きているかもしれない。
 
正確に理解をして具体的に支援してくれるのではなく、感傷を持って同情を押し付けて憐れんでいるだけの理解者は、苦しむ人にとってはトドメになってしまう。
  

安心はしても自信にはならないこと

先日、新宿で待ち合わせをした。真夏の夕方、気温はたぶん35℃を越えていたと思う。待ち合わせ場所にしたのは駅近くのビルに入っている洋服店だった。エアコンが寒いほど効いて、吹き出していた汗が体を冷やしていくほど涼しい。

今年の真夏に涼しげに履けるテーパードパンツをいろいろ物色していたら、近くに同じように待ち合わせをしている様子の若い男がいた。派手なスキニーのデニムを履き、白いTシャツは肌に張り付くようで、白いレザーのスニーカーを履いている。別になんてことない服装なんだが、俺はその男をついじっと見てしまった。安っぽい言葉で言うと、オーラがあるというか、威圧感があるというか、つい目を離せなくなったんだよね。その若い男は、いくつもシャツを試着しては鏡を見て、何度もiPhoneを確認している。

そのうち、待ち合わせていたっぽい若い女の子が現れた。男が何か話す。ふたりとも韓国語だった。ふたりとも笑顔で、何か冗談を言っているようだった。見るからに幸せオーラを振りまいているんだが、何よりその二人の周りに与える威圧感がものすごくて圧倒されてしまった。

これって何なんだろうって思った。韓国人だからじゃない、もっと人間の根源的なもののような気がして。

そのうち、俺も待ち合わせの女性が現れて、両手でメガネを作って笑って俺の方に近づいてきた。この人も人生を楽しんでいるオーラがすごい。声だってソの音階で話しかけてくる。ぱーって突然花を咲かせるような空気を持っている。

この新宿という街は18歳の時から居座り続けた場所だったが、昔も今も、人が人生を目一杯生きるときの熱のようなものを放射し続けていると思う。この街では、人生に対して主体性を無くした瞬間に、闇に飲まれてしまう。

人生を楽しむのは自分、自分を機嫌よくさせるのも自分、自己肯定感は自前で調達して持ち寄って、それをみんなで燃やし尽くして一日を終える。そういう街だ。昔から。

自己肯定感を自前で調達できないやつは、この街では卑屈になって消えていく。東京は怖い街だと言いながら。

 

俺が育った田舎町はどうだっただろう。どちらを向いても、人の顔はどんよりしている。人通りのない道を歩けば、すれ違う車の運転手はみんな、俺のことをジロジロ見る。そのくせ、他人に話しかけようともしない。

おっさんもおばさんも、服やバッグのブランドばかり気にする。「ダサい」人に対して陰口を言う。流行に乗っていないと「ダサい」と言うのだ。だから田舎では流行のコスプレをする「おしゃれ」な人と、ダサい人の二種類しかいない。

みんな一様に、表情が暗く、自信がなさそうだ。無論、オーラを威圧感のようにぶちまける人間は滅多にいない。

 

別に表情が暗くてどんよりしていてもいいじゃないかと言うかもしれない。でも、良くないんだよね。例えば仕事をしても、恋愛をしても、その「成果」は田舎では貧相なものしか手に入らないことが多い。

なぜなら仕事も恋愛も、自分に自信を持たせたり、自分の機嫌を良くしようとする人間にだけ、圧倒的な奇跡を引き起こすものだからだ。ド田舎のホストがド田舎のどんよりした風俗嬢相手にチャラついても、たいして稼げもしない。どうせホストなんかやっていけず数ヶ月もすれば土木作業員やるだけだろ。内輪受けじゃなく、もっと大きな結果を叩き出して、次の世界に飛び移ろうとしたら、必要なのは圧倒的な自信と自己肯定感だから。

田舎の人ほど、自信を持つのに根拠が必要だと思いこんでいる。結果を出したら自信がつきますって思ってるんだよ。それは死ぬまで自信を持てるわけがない。自信に根拠なんか必要なくて、今すぐ持つべきことだよね。だから、結果も出してないのに自信満々な人間を見ると、田舎の人たちは攻撃しようとする。陰湿に。それは自信を持つ人間からしたら、卑しく哀れで嫉妬深い村人にしか見えないわけだ。

 

自信がないから、きっとあらゆるブランドにしがみつく。

今はこのパンツのシルエットじゃないとおしゃれじゃないとか、このブランドのものじゃないとおしゃれだと思われないとか、この大学じゃないと優秀じゃないとか、この会社じゃないと恥ずかしいとか、こんな年収じゃないと人に言えないとか、親が不機嫌な顔になると不安になるとか、そういう誰が決めたか分からないアイコンにしがみつき、そこから外れないように必死になっている。スペックとか言う言葉もそうだね。そんなスペックなんて誰が決めたのか分からないけど、そこにしがみつく理由は、「自信の無さ」だよね。

 

新宿の街で生き抜くために必要だったのは、自分らしくいるということだった。

この言葉の意味が分からない人がきっと多いと思う。自分らしく。

これだって根拠なんて必要なくて、自分が決めた自分という人生を、自分が操縦すると決めること、それだけなんだよね。自分探しとか言っておばさんになってる女も大勢いるけど、そんな探すもんじゃないでしょ。今決めればいいんだから。

 

俺は俺の人生を俺らしく生きるって言葉に出して言えばそれでいいだけのこと。

わたしはわたしが思う人生を、わたしが生きていくって書けばそれでいいだけ。

自分のことが好きか嫌いかって、人は誰でも自分をほったらかしにして生きると嫌いになるはずだよ。自分という手にかかる人間を、人は誰でも自分の中に飼っている。手をかけずに放置すれば、自分という人間はグレて暗い不良になって当たり前だよね。

自分に手をかけてやれと思う。

やりたいことはやってみればいいし、食いたいもんは太るとか気にせず食えばいいし、会いに行きたいと思ったら会ったこともない女性に飛行機で会いに行けばいい。着たい服を、着たいコーディネートで着ればいい。得意なことを仕事にしてもいいし、成功するか分からないけどやりたいことを仕事にすればいい。全部自分が決めればいいでしょ。

 

その時、「したくないこと」を基準に考えるのはやめたほうがいいよね。したくないことを排除することだけを自分らしさだと勘違いすれば、実は今すぐ死ぬしか選択肢がなくなる。

「わたしはこの仕事はしたくない」と言っているだけで自分らしさが分かると思ったら大間違いで、「じゃあ何をするの」って質問されるだけ。何もしたくないって本音がそこにあるはずだよね。

分からない、分からない、できません、できません、ばかり言っておばさんになっていくだけ。

何もしたくないのが素の人生だと思う。そんな人生の中で死ぬまで必死に生きようとしたら、したいことをするのが当たり前でしょ。

それが自分らしさってやつだよ。

その彼氏を親も友達も批判するかもしれない。でも、好きなら仕方ない。その人と必死に生きるのが自分らしさであって。

稼げない仕事をしているかもしれない。でもそれがやりたいことだったらやればいいよ。それが自分らしさ。

自信満々に、やりたいことにむかってぶっ飛んでいくだけだよ。

 

似合いもしない流行りのブランドの服を着たところで、一瞬安心はしても、自信にはならずにいつか飽きてしまうだろ。

それが今のあんたの人生じゃないの。

 

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主観でものを語る人間に、正義マンは勝てない

最近ぽっきい先生がTwitterであちこちに噛み付いていて、俺も見ていて面白いなあと思って見ている。今回の牙を剥いたのは、「モテない男に対して関係ない女が説教をし、小馬鹿にしている」ということだった。ツイートが止まらず、その男臭さに、世の中のおっさん達は共感を覚えたかもしれない。

内容はともかくとして、俺なんかでも、ハッと思ったことがある。

 

ああ、そうだよな。忘れてたなって思い出した感情があるんだよね。

 

ぽっきいは、もともと歩く侠気みたいな人間なので、ネットの中だけではなくリアルの生活でも結構人に噛み付くことが多い。その怒りの源泉は、「自分ではない誰かが傷ついている」ということだと思う。誰かに対して、反論ができない正義のような一般論で馬鹿にし、傷つけようとしているということにものすごく敏感なんだと思う。

でもまあ、そうだよね。決して社会のメインストリームにいるわけじゃなく、道路で言えば歩道のさらに外側の砂利の上をトボトボ歩くような階層の人間だ。俺もそう。人の目につかないように、隠れるように生きている階層なんだよ。そんな人間は、他人が誰かを傷つけようとしているということに激しく義憤する。

 

それがいいかどうかは別にして、俺も忘れていたことがある。

それは、「自分という主語を用いて、主観を声高に主張しているか」ということ。

 

今の世の中って、もしかしたら「正しいこと」を求めすぎているのかもしれない。気に食わないことがあっても、頭にくることがあっても、「客観的に見てどう判断すればいいんだろう」とか「正義はどちらにあるんだろう」とか考える人が多いんだと思う。

だから、正しいのか確信が持てないことには、発言しないのが癖になってる。

ロジカルで、正しいことを、小粋な表現で曰い、暴力的な反論には華麗にスルーする。それがかっこいいことだと思われがちだ。

それができない子どもたちは、言葉もなくニヤニヤして、自分を腐して引きこもっている。

 

でもどうだろうね。

俺はそれが正しいとは思わない。

 

少し前に、Twitterで、「産婦人科に出入りするJKが多くなって、簡単に堕胎するなんてけしからん」ってツイートして大炎上したおじさんがいたよね。

まあ、そういうJKばかりじゃないだろうとは思うが、だからといってこれ見よがしに金属バットで殴りつけるような正義マンが多くて、辟易するんだよね。

それってさ、後出しジャンケンみたいなもんじゃない。

誰かが殴っているから、自分も殴る。誰かが怒っているから自分も腹が立ってきた。そんなもんでしょ。産婦人科に出入りするJKに対して、知らないおじさんがどう考えようと基本的に関係ないわけ。

または、そういう揉め事を見て、もっと卑怯なオヤジもいるよな。後出しジャンケンどころか、後日出しジャンケンみたいなもんで、「どっちの言い分もわかる」みたいに言い出す奴。滑稽だね~とかいいながら、沈静して安全になってから言うオヤジ。

 

ここで俺が思うのは、圧倒的に正しいのは、最初に発信したおじさんだと思う。なぜなら、主語を自分にし、主観を主張しているのはただ一人だけだったと思うから。

もちろんおじさんの見解が正しいとは思わないけど、主観を主張し、明確に意思を持って喧嘩を売りに行ったところが俺は価値があると思ってる。

 

他人の意見が正しいかどうかジャッジする裁判官が、特に20代の子供中心に多すぎるよ。

そう思ったんだから思ったんであって。

それを明らかに特定の個人や、特定の人種や団体を攻撃するのはモラル的にアウトだろうけど、それにしたって、「俺はこう思う」とか「俺はそうは思わない」とか「俺はそれは間違ってると思う」とまず言うことの価値って、最近粗末にされすぎている。それが的外れだとしても、主張することの価値を軽んじるべきじゃない。

 

間違っていたらだめなことなのか?

だめじゃないでしょ。なんで完璧マンじゃなきゃだめなの。

 

俺の仕事でも、20代の男数人と打ち合わせをすると、このあたりが顕著なんだよね。ほんと意見を言わない。正しいかどうかをまず考えているのが分かる。そして全く聞く価値もないような一般論を言う。

聞いてねえよそんな一般論は。こっちも正しいし、あっちも一理ある、なんてどうでもいいわけね。

そして、40代50代のおっさんやおばさんがほぼ口論レベルで議論し、時に罵倒までしてる姿を見て、「必死過ぎて引いた」とか陰で言い合う。しかし、その必死に喧嘩したおっさんおばさん同士は、相手の考えていることがどんどん分かってくる。もちろんムカつくことのほうが多いが、「あいつの考えているのはこうだ」と正確に理解している。お互いを尊重しているのはその喧嘩議論してベストの着地を模索したおっさんの方で、一般論と綺麗事で逃げた子どもたちは、仕事の仲間同士で陰口を言い合う関係になってしまう。

バカ呼ばわりして議論したおっさんとおばさんが、なぜその後一緒に飲みに行けるのか、全く理解できないようだ。簡単な話で、喧嘩と議論はしたけど憎しみはないし、リスペクトしてるからなんだけど。

 

客観性も、俯瞰する目線も、俺は優先すべきことじゃないと思うんだよね。

主観と主張のバトルをするしか、解決と進化の手段がないことのほうが多いよ。この時、嫌味は絶対にだめだ。喧嘩する気もないのに、嫌味を言ったり、放り投げたり、そこから立ち去るのもだめ。

「そこはそうじゃねえ、馬鹿かおまえは。それはこうだ」そう言って議論をふっかけたら、相手が激昂して主観で反論するのが正しいあり方だよ。相手を怒らせる言い方をワザとして、喧嘩腰で返事が返ってくるというのが、正々堂々とした議論であって、俺は一番相手をリスペクトできるプロセスなんだよね。

 

もちろんそのコミュニケーションの仕方は、前時代的だろうね。子どもたちにそれをやったら、本当に泣くから。泣くか、家に帰ってネットで愚痴るか、病んだとか言ってメンヘラ決め込むから。だから誰もまともに正面からコミュニケーションしてくれなくなるし、褒める価値もないところを褒めてもらってニヤけるだけの無能な人間が出来上がるんだけど。

俺は、言わなくていいことは言わなくていい、黙っていればいいしそれで若手がだめになっていくならそれでいいとすら思ってる。黙る。それが今の時代を生き延びるおっさん達の自己防衛かもしれないよね。

 

ただ、そんな「黙る」という行為も、もうすぐまた時代遅れになるかもしれない。もし主観と主張をゴリ押しする文化が、もっと強く押し出してきた時、正しさにこだわる今の子どもたちがおっさんになっていて、きっと若い子に言われる。

「またあのおっさん、正論で逃げたよ」って。

 

間違っていても、主張する人間のほうがどうしてもリスペクトを受ける。正しいことを言うより、自分の主義を主張できる人間、喧嘩する腹が決まってる人間と友達になりたいに決まってる。

無関心や正しさに拘って、結果無責任で自分勝手な生き方をするのは、決して現代的とは言えない。本当の弱者なんだよ。

 

喧嘩しないのもいいことだ。でもそのときは、他人に嫌味を言ったり、人を小馬鹿にする表現を一切すべきではない。他人がプレッシャーを感じるあり方を一切消して、存在感を無くして生きるべき。それも、あり方だとは思う。

ただ、尊敬も信頼も縁はないよ。尊敬と信頼が何か知らない人からの尊敬と信頼は受けられたとしても。

 

主張するというのが、これからの大人としてあるべき責任のとり方のような気がしてる。

 

 

今の人生はあなたの選択の結果なんかではない

人生には沢山の分岐路があって、選択の繰り返しの結果で今の人生があるという人がいる。俺も昔はそう考えていた。

毎日毎日、一秒ごとに迫られる選択で、ひとつひとつ違うことを選んでいたら人生どうなっただろうと俺はいつも空想したりした。

もしかしたら、一流大学に入っていたかもしれない。

もしかしたら、留学してウォール街で一攫千金を狙っていたかもしれない。

もしかしたら、20歳で結婚して今ごろ成人した子供がいたかもしれない。

もしかしたら、サラリーマンとして着実な人生を歩み、美人ではないけど性格のいい奥さんがいたかもしれない。

もしかしたら、アキラにはなっていなかったかもしれない。

もしかしたら、死んでいたかもしれない。

 

そういう空想はファンタジーだし楽しいんだけど、実際のところはなんの意味もない。

これだけは言える。

 

人生は、どう生きてきても、今の自分の姿になる。

どっちを選んでも、今の自分の姿になる。

 

これもファンタジーにように聞こえるかもしれない。科学的根拠もない感覚的な言葉遊びにように感じるかもしれない。

でもそうではなくて、現実的に、具体的に考えてみると、残念ながら人生は些末な部分以外は大筋決まった脚本のようなものだと分かる。

人は生まれながらに沢山の「要因」を持つ。遺伝子の配列を始めとして、育つ環境、親の能力、場所。その要因が手繰り寄せる現実は決して多種多様ではない。

運命って言葉はちょっとおセンチに過ぎるが、運命といえるものがあるなら、生まれながらに決まっているんだと思っている。

 

努力すれば人生はどうにでも変化すると成功者は言うかもしれない。でも、残念ながら努力がなかったとしても、いまとほぼ変わらない人生になっているはずだ。

 

別に諦めているとか、努力を否定するとかではない。努力の方向性の問題を言っているんだ。

 

自分と違う人間になる努力は、必ず浪費と失望で終わる。

 

人生における努力とは、自分というさだめられた運命を受け入れる覚悟のことなんだろう。

それは時に苦しいことだよ。どうしてこんなことになるんだろう、どうしてこんな思いをするんだろう、自分だけ不公平じゃないか、自分だけ虐げられてるじゃないか、理不尽だ、不条理だ、そう思うことのほうが多いよね。

 

俺だって、別に性欲が強いわけじゃないのに、なんで派手な女が俺の前でパンティ脱ぐのか、俺の気持ちを巡って激怒したり泣いた演技したり伺ってきたりするのか、20歳の時からげんなりしていた。

もっと普通のまともな人生になるはずだったのに、どうして財布に50円もなく公園で水を飲んで眠るような人生になったのか、絶望していたこともある。

俺は会社員として人が羨むような安定した生活をし、普通の結婚をし、家族を作るはずだったのに、どうしてこうしてぎこちなく一人で眠りにつき悪夢で目覚める大人になったのか。

どうして病気を抱え、できないことが山ほどある人生になってしまったのか。

どうして、まともじゃない人生の女の子達まで抱え込んで、自分の心配を先送りにするそんな人生になったのか。

言葉にすると滑稽なものだけど。

 

でも、ある時、気がついた。

人はだれでも、自分の物語を生きているのだと。

決して華やかではなく順調でもない。順調だとしても途中で躓いたり、どんくさいスタートだとしても美味しい思いができたり。絶望の中に希望を見出したり、希望の中に失望を見たり。あるいは、失望の中に絶望を、希望の中に夢をみたりもする。

金もないのに借金が増えたりもすれば、駅から歩く道すがらにスキップしたくなる夜もある。

誰もが二度見するような華やかの美女の影に、過酷な運命に翻弄される人生があったり。

 

自分に授けられた自分という人生を生きていくしかない。この人生と違う人生はない。病気の俺は病気ではない人生はないし、女にいろんな感情を担がされる人生以外の人生もない。金を稼いで誰かのために使い続けるのも人生で、金じゃないものに幸せを感じるのも人生。障害を持って生きるのも人生だし、一人で孤独に生きるのも人生。どうなったとしてもそれは自分の人生だろと思う。

自分にさだめを不幸と思うのか、それとも幸せを見つけるのかは努力なのであって。

 

自分の運命に逆らうから不幸になるんだと思ってる。

自分じゃない人生を夢見るから、金も信用も、もしかしたら失わなくていい人間関係も無くすんじゃないかと。

それをやるべき人生なら、何がどうなったってやるんだから。

今ここにいる人生は、偶然でもなければ、自分が選んだ選択の結果でもない。必然でしかない。考えてみれば当たり前のことで。

 

だから、いま目の前にある仕事や人間関係を、丁寧に扱ったほうがいいと思うよ。

 

 

【pairs】Facebookで恋活・婚活

大丈夫じゃなくたっていいだろ。

こういう言い方をするのは好きではないが、大人になるって本当に嫌だなと思うことがある。

 

18歳のころ、もうすぐそこに大人が近づいていた時期、大人になるということを考えるとちょっとゲンナリしてしまって、なるべく考えないようにしていた。当時付き合っていた彼女は、勉強の成績も優秀な優等生タイプで、卒業したら入学するつもりの大学の情報や、借りるアパートの立地や間取りなんかもしっかり調べていた。ピンク色のノートに調べたことを整理して書いていたり。

「アキラは卒業したらどうするの?」と、学校帰りにいつも立ち寄るファストフード店のテーブルで彼女は俺に訊いた。

「え?まだ9月だよ?」俺は答えにもならない答えを言った。「卒業は3月じゃん。」

彼女は、呆れたような顔をして「大丈夫なの?」と俺に言ったんだ。

何が大丈夫なのか俺には分からなかったけど、とりあえず大丈夫だよと言った。だって、俺、頭は馬鹿だけど健康だよ。懸垂もできるし逆上がりも出来る。漢字は書けないけどデンマークの首都は覚えてる。おまけにセックスもできるぜ。

そう言いたかったけど、言う雰囲気ではなかった。

その頃、俺にはもう一人いつも遊んでいるSという女の子がいて、その夜、Sの自宅に遊びに行った。Sは一人暮らしだったんだ。Sの母親はずっとシングルだったけど、1年前に彼氏が出来た。転勤族だった彼氏についていきたいとわがままを言い、別れた夫にもらった古い自宅にSを残してさっさと東京に行ってしまった。「たしか吉祥寺ってところにいる」と言っていたが、俺にはそれがどこにあるのかは知らなかった。

Sの自宅でカルピスソーダを飲んでからウイスキーを飲んで、浮かれて大騒ぎしながらセックスをした。

そのあと俺は聞いたんだ。「大丈夫なの?」

「は?」Sは煙草に火をつけて笑った。「何が大丈夫、なの」

Sは手を伸ばして、汗で濡れた俺の長い前髪に触れた。

「何がだろうね」俺はそう言った。

そうだな、大丈夫って何がだろうね。別にあと二年もすれば20歳のジジイババアになるよな。30年も過ぎたら48歳で、俺なんかとっくに死んでる予定だし。

「死ぬまで生きるだけだよ」Sは笑って紙コップにウイスキーを注いで飲んだ。

そう。大丈夫って、きっと、親が理解できるまっとうな大人になるための準備は大丈夫かって意味なんだろうな。親が理解できる進路、親が理解できる職業、親が理解できる交際相手と交際の仕方、親が理解できる結婚、親が理解できる自分との付き合い方、親が理解できる子育て。それを外れたらきっと不安になるんだろう。

なるほどね、大丈夫かって。大丈夫じゃないな俺は。

じゃあねって言ってSの自宅を出たのは深夜の3時。自転車で坂道を駆け下りて右に曲がると、そこは俺が好きな景色だった。まっすぐで大きな歩道に街頭が並んでいて、自転車のタイヤが舗装のつなぎ目を踏むたびに音を立てる。

大丈夫かって、大丈夫だよ。俺は死ぬまで生きるだけさ。そう独り言を言って、俺が邪魔者でしかない築40年のぼろ家に帰った。あと半年したらここは出ていく。何をするのかって、何をするのかすら決まってないけど、それで大丈夫じゃないって誰が言える。死ぬまで生きるだけさ。

 

18歳の4月には俺は東京にいた。不思議な縁から夜の世界に足を突っ込んで分かったのは、大丈夫じゃない大人がたくさんいるということ。あんなに大人になれない、ならないおっさんばかりいるなら、俺はそれでいいやと思った。大丈夫じゃない人生の中で出会う人は、魅力的な人か、ぶっ殺しても構わないほどの大便野郎か、どちらかしかいない。大丈夫じゃない人生でもたっぷりの金とおっぱいの大きな美女と、それと友達がいれば、別に他人の評価なんか無価値だよな。そう思った。

 

でも、それからずっと大人になってみて、とっくに死ぬはずだった30歳も越えて生きてみて、気づいたら、あの「大丈夫なの」という言葉に似た価値観を持ちそうになっていることに気づく。

もちろん親の目線のことじゃない。

「この事業計画で大丈夫なの」

「このコミュニケーションで大丈夫なの」

「この資料は大丈夫なの」

「この利益で大丈夫なの」

「この目標遂行率で大丈夫なの」

「こんな付き合い方で大丈夫なの」

「そもそも、俺で大丈夫なの」

そんなたくさんの「大丈夫なの」を繰り返しそうになる。その先は、もう大人なら知っていると思うけど、そこはやりがい搾取村しかない。

ろくな給料ももらえず、年収350万円くらいで、人間的成長とか自己啓発とか能力開発とか自分で言い出し、金よりやりがいみたいな気持ち悪い奴隷になって定年退職まで生きていく。一流の奴隷になるために、安い給料からさらに「自己投資」してセミナーに参加したりする。

あるいは、丁寧な暮らしみたいな言葉に踊らされて、パンケーキミックスを使わずに一から材料を集めて作ってみますとか、気の利いた彼女になりたくてなんか馬鹿な女みたいに媚びまくって彼氏と付き合うとか。自分から自分という人生を搾取するようなものだよね。

全部、自分が抱える「大丈夫になりたい」という妄想からくる妄動だよ。

大人なら考えてみたら分かるはずだよ。その先にたいした幸せがないということくらい。

 

大丈夫じゃなくたっていいだろ別に。死ぬまで生きるだけさ。

 

もう少し、大丈夫じゃないくらいいい加減でいいと思うんだけど。

就職しなくたって金は稼げるし結婚だってしていいんだよ。

別にセックスしなくて処女のままだって、恥ずかしいことないんだし。

転職歴が10回あっても、それがだめだという人間がいる会社に就職しないことが幸せだってこともある。

学歴が中卒だろうと高卒だろうと、年収1000万円くらいなら学歴関係ないし。

 

約にも立たない大丈夫をいくつ集めても、絶対に幸せは来ない。

この瞬間の人の気持ちに敏感な人間以外、何をやっても大丈夫にはならないわけで。

 

【pairs】Facebookで恋活・婚活

精神疾患が家族にいると、家族が壊れる本当の理由

精神疾患にもいろいろあるけれど、うつ病やパーソナリティ障害の患者がいる家族は、多くの場合家庭がぎくしゃくしている。

最初は家族も献身的に面倒見てくれる。親とか旦那とか妻とかきょうだいとか。職場も気を使ってくれる。みんな、原因を作ったのは自分がストレスをかけたからじゃないかって反省もあるからね。最初は、ゆっくり休みなよって言って、なんでも好きなようにさせてくれる。仕事はいかなくていいよ、仕事こなくていいよ、良くなるの待ってるよ、焦らないでね、頑張らないでね、とか言われてね。

でも次第に家族との関係も、職場での立ち位置も、ぎくしゃくし始める。家族の誰からが苛立ち始める。特に苛立つのは、父親と上司。父親からきつく言われる母親が次に苛立ち、上司の次に同僚が伝染するように苛立ち始める。

精神疾患の本人はその理由がなぜか分からない。

自分が病気だからこうなんだ、病気だから迷惑なんだと、考えてしまう。お金稼がないからこうなんだ、とかね。

本人はどんどん追い込まれていき、病状は致命的なものになってしまう。

 

でも、原因は違うところにある。

家族が優しく、家族思いであればあるほど、事態は混乱していく。

精神疾患が家族に1人いると、家族が崩壊する本当の理由は、

「正確に物事を伝えようとする感受性がヒトカケラもない」家族が一人いるせい、ということなんだよね。

 

精神疾患だけじゃなく、この正確に伝えることが大切だって思ってない人が家族にいる場合、必ず人間関係が壊れる。

 

例えばこんな感じ。精神疾患じゃなくても、普通の家族でも。お父さんが、少しグレて引きこもりになった息子がいる家庭。

家族思いの父親が、息子の様子をお母さんに訊きたいとする。

 

父「あいつはずっと学校行けてないけど、今日は何してたんだ?」

母「部屋にずっといたと思うよー」

父「部屋にいて何してる様子だった?」

母「ゲームしてるだけだと思うよー」

父「・・・いや、俺は正確に伝えて欲しいんだよね。ゲームしてるだけだったら学校行けるんだし、それだとただサボってるだけということになるだろ」

母「そんなこと言われても、あの子の正確な気持ちなんか分からないから苦労してるのに・・・」

父「正確な気持ちを教えてくれって言ってない。」

母「そんなこと言われても・・・」

 

たぶん、この家庭はそう遠くないうちに壊れる。グレてるとか、引きこもってるという異常事態が起きた時に、この母親に「正確に伝えることの意義を理解する」という感受性が欠けているせいで、物事は絶対に進展しなくなる。

 

ここで、父親が求めていたのは、息子の正確な心の内を教えろということではないよね。それが正確に伝えるということじゃない。

父親が聞きたかったのは、「自分と同じ保護者であり、同じ目線で心配している母親が、息子と接してみて何を考えたか、何を感じたか、問題解決に向かって何ができそうか、何が障害になっているのか、明日はどうしようか」という、母親の主体性なんだよね。

でも、この母親は主体性もなく自立もなく、社会経験もないんだろう。正確に伝えようとすることで、同じ立場で相談する、問題を共有する、共感し合う、ということが出来るという実体験が一度もない。

言い方を変えると、問題解決のプロセスを経験したことがない人間が家庭に1人いると、簡単に壊れるってことだよ。

 

この母親と接していると、父親は次第に苛立ってくる。

おととい、学校の先生が家庭訪問してきたということを後で何かの拍子に耳にし、愕然とする。そういう「事実」さえ伝えることが出来ない人間なのかと。そんな能力しかない女なのかと。

先生が訪問して何を言ったのかも、質問しないと出てこない、それもどうやら不正確なものらしく。

 

そうすると、引きこもりとかグレるっていう本人の問題が、母親によって悪い方に増幅され、家庭が複雑に混乱していく。でも母親は子供に言う。

「お父さんが悪い」

「あなたは何も悪くないのよ」

でも子供に言わるだろう。

ババア、ムカつくんだよ顔見せんじゃねえよ。って。そして母親はさらにそれも父親のせいだと思い込む。

 

精神疾患の場合も同じだ。

本人の病状ではないところで、周囲が混乱していく。

 

もし家族に、正確に伝えることができない人がいる場合、やらなければならないことがあるんだよ。

それは、この家族だとしたら、父親が全部を背負うということ。

父親が、母親も息子も丸抱えし、息子を治してやるために母親を利用してうまくやろうと覚悟すること。共感や共有ははなから諦めること。

 

仕事でもそうだよね。問題が起きた時、問題解決のプロセスを踏めないような能力のない同僚ばかりだったら、自分が全部仕切るしかない。でも仕切ってると分かるとそっぽ向いてしまうのも能力のない人間たちだから、持ち上げつつ、褒めつつ、問題が解決するように自分が全部をコントロールするようにしなきゃならない。

問題が起きても、自意識が大切な人なんて、ものすごく多いんだよ。優秀な人はその事実に打ちのめされそうだけど、それが現実だから受け入れなきゃならないね。

 

正確に伝えることの価値を知らない人には、そもそも関わるべきじゃないんだけどね。

 

 

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猿真似をしなくてもいいんじゃないかな

俺は、自分が持っている重い発達障害の症状について、成人をとっくに過ぎるまで未診断のままだった。

家族が気付いて診察を受けさせたりすることは全くなかった。日常生活をきちんと送る能力がなかったせいで、親からは激しく虐待を受け、学校ではみすぼらしい姿になるまで暴力的にいじめられた。人間関係を築くのが絶望的に無理だったので、いつも1人で過ごしていた。学習能力もかなり遅れていたしね。

ずっと大人になってから、ああそうか、若い時にあれだけ苦労したのは自分の障害のせいだったのかって、診断名があれほど救いになったのは驚いた。まあ診断がついたとしても、日常生活でできないことは今も山ほどある。

例えば・・・

時間に遅れないように目的地に着くこと。

誰かに機嫌よく接すること。

誰かの気持ちを理解して、的確な返事をすること。

多くの人に共通する感性を持って、「それ分かる」って本当に思えること。

たくさんの人の輪の中に入って、人気を集めるように振る舞うこと。

恋愛すること。

人の期待を理解して応えること。

挙げていくとキリがない。そういうことが基本的にできない。

でも、それでは社会生活は送れないよね。18歳で東京に出てから、生きていくために手にとった職業は、夜の仕事だった。想像に難しくないと思うが、そこは普通の人よりもはるかに一般的な常識が必要で、コミュニケーション能力が尖っていることが必要で、かつ、いつも機嫌よく人気を集めるように振る舞わなければならないよね。

 

基本的に無理なわけだよ(笑)でも、俺はずっとその世界の住人でいることができた。その当時は自分の障害なんて知らなかったので、ずいぶんとしんどい思いをしたもんだ。普通の人が覚えられることが覚えられず、やれることがやれないからね。客に電話をするということが苦手で、もう終わってるんだけど、電話をかけて営業をするってことが死ぬほどつらかった。(やったふりしてやらないことのほうが多かった。)できないばかりに死ぬほど怒鳴られる每日。

 

じゃあどうやって生き延びてきたのかって、答えは簡単なことで、正確な呼び名は知らないけど、「パターン学習」と「オリジナリティ」のおかげだと思う。

こんなことがあったら、人はこんな気持になるのが「正解」なんだと、数千、数万パターンの感情の動きを記憶するのがパターン学習。この感情になったらこれを言う、っていう模範解答のようなものも覚えていく。そこに共感っていう心の動きはないんだよ。だって俺は一般的な感性の流れがなかったから。ただ経験と知識で自分の脳味噌をアップデートしていくしかなかった。

 

時間に遅れないようにするっていうことも、解決策はちょっと極端で。約束の1時間前に着くように行く。それだけ。相手のためにとか、そういうことじゃなく、1時間前に行かなければ死んでしまうと思い込ませて、必死になって行った。時間があるからって服屋をのぞくなんてことも禁止。待ち合わせ場所で一時間立っているのがルール。

そうじゃないと、まともな人間のように見えなかった。

 

でもねえ・・・それを一般的に何ていうかっていうと、「猿真似」だよ。

 まともな人の振る舞いを猿真似して、自分じゃない人間になろうとするわけ。苦しいよこれは。

20歳の時、おいしいチーズケーキのお店があるよって言われて一緒に行っても、味覚が死んでるのでよく分からない。匂いしか分からないから、匂いを嗅ぐとチーズケーキってくっせえし。バニラとゲロに臭いがする。でもそんなこと言えないでしょ。

わー、おいしいなあって、笑う練習は何度も繰り返すんだよ。俺が美味いと思うのは、当時キャラメルコーンとコーラと葡萄と味噌ラーメンだけだった。そんなことも言えるわけがない。

 

あとは、オリジナリティ。電話ができなくてサボってばかりじゃ売上立てられないだろ。やらなきゃならない。

でもならなきゃならないっていうのが無理なわけ。無理なもんは無理なんで、違う方法を考えなきゃならない。楽譜が読めないし覚えられないから、自分オリジナルの記号を開発しました、みたいなものだよ。

電話するのではなく、向こうから電話がかかってくる変なやり方を思いつき、そこの一点をひたすら磨いた。俺はひたすら電話を受けていればいいだけ。そんなのまともじゃない、きちんと基本通りにやれって何度も怒られたけど、結果は普通以上に出した。結果が出ていれば、まあ我慢してもらえる。認められはしないけどね。無視くらいはしてくれる。

 

ということで、俺のコミュニケーション能力の根本は、アップデートを繰り返した末の単なる小手先のスキルでしかない。

仕事の方法も、今も同じ。業界の常識から相当離れている。それは違う、それは間違っていると何度も指摘されてきたし、不正を疑われることも多いけど、でも仕方ない。俺がオリジナルで編み出して磨き上げた方法だから、俺はそれをやるだけ。それ以外ではできないから。

 

俺と同じ障害を持って苦しんでいる人がどのくらいいるのか分からない。そういう人達に俺が言いたいのは・・・

 

もうそろそろ、猿真似ごっこはやめませんか?ってこと。

 

自分以外のものになろうとしたり、まともな人間を気取って、気持ち悪いことを言ったりやったりするのは、もう終わりにしませんかってこと。

周りと同じ人間になるように努力しても、幸せになれなかったじゃないかって、もう受け入れる時が来てるんじゃないですか。

 

できないことはできない。

やりたくないことはやらない。

付き合いたくないものにつきあわない。

喧嘩になりそうなら、逃げる。

いじめられそうなら、逃げる。

学校行きたくないなら、行かない。

仕事がもうやりたくないなら、辞表出しに行く。

大学行きたくないなら、行かない。

実家のお父さんお母さんと一緒に住みたいなら、住む。

住みたくないなら、住まない。

金を稼ぐために、大金払って無名な私立大学に入学する必要はない。

スペックなんて言ってる学歴コンプレックス野郎とか、そっと距離を置く。

性格が会わない彼氏彼女なら、別れる。

彼氏の親が自分を悪く言うようなら、別れる。

 

自由に生きていいと思う。

仕事は、自分に合う仕事を自分で生み出せばいいし、

1人で生きていくと決めれば、急にわくわくもするよ。

 

自分以外の何者にもなる必要はない。自分のままで、自分の目標に向かって、自分のやり方で、1人孤独に打ち込んでいって、お金を稼げばいい。

 

誰からも褒められなくても、誰も自分の活躍を知らなくても、別に大した問題じゃないだろ。

 

 

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