今の人生はあなたの選択の結果なんかではない

人生には沢山の分岐路があって、選択の繰り返しの結果で今の人生があるという人がいる。俺も昔はそう考えていた。

毎日毎日、一秒ごとに迫られる選択で、ひとつひとつ違うことを選んでいたら人生どうなっただろうと俺はいつも空想したりした。

もしかしたら、一流大学に入っていたかもしれない。

もしかしたら、留学してウォール街で一攫千金を狙っていたかもしれない。

もしかしたら、20歳で結婚して今ごろ成人した子供がいたかもしれない。

もしかしたら、サラリーマンとして着実な人生を歩み、美人ではないけど性格のいい奥さんがいたかもしれない。

もしかしたら、アキラにはなっていなかったかもしれない。

もしかしたら、死んでいたかもしれない。

 

そういう空想はファンタジーだし楽しいんだけど、実際のところはなんの意味もない。

これだけは言える。

 

人生は、どう生きてきても、今の自分の姿になる。

どっちを選んでも、今の自分の姿になる。

 

これもファンタジーにように聞こえるかもしれない。科学的根拠もない感覚的な言葉遊びにように感じるかもしれない。

でもそうではなくて、現実的に、具体的に考えてみると、残念ながら人生は些末な部分以外は大筋決まった脚本のようなものだと分かる。

人は生まれながらに沢山の「要因」を持つ。遺伝子の配列を始めとして、育つ環境、親の能力、場所。その要因が手繰り寄せる現実は決して多種多様ではない。

運命って言葉はちょっとおセンチに過ぎるが、運命といえるものがあるなら、生まれながらに決まっているんだと思っている。

 

努力すれば人生はどうにでも変化すると成功者は言うかもしれない。でも、残念ながら努力がなかったとしても、いまとほぼ変わらない人生になっているはずだ。

 

別に諦めているとか、努力を否定するとかではない。努力の方向性の問題を言っているんだ。

 

自分と違う人間になる努力は、必ず浪費と失望で終わる。

 

人生における努力とは、自分というさだめられた運命を受け入れる覚悟のことなんだろう。

それは時に苦しいことだよ。どうしてこんなことになるんだろう、どうしてこんな思いをするんだろう、自分だけ不公平じゃないか、自分だけ虐げられてるじゃないか、理不尽だ、不条理だ、そう思うことのほうが多いよね。

 

俺だって、別に性欲が強いわけじゃないのに、なんで派手な女が俺の前でパンティ脱ぐのか、俺の気持ちを巡って激怒したり泣いた演技したり伺ってきたりするのか、20歳の時からげんなりしていた。

もっと普通のまともな人生になるはずだったのに、どうして財布に50円もなく公園で水を飲んで眠るような人生になったのか、絶望していたこともある。

俺は会社員として人が羨むような安定した生活をし、普通の結婚をし、家族を作るはずだったのに、どうしてこうしてぎこちなく一人で眠りにつき悪夢で目覚める大人になったのか。

どうして病気を抱え、できないことが山ほどある人生になってしまったのか。

どうして、まともじゃない人生の女の子達まで抱え込んで、自分の心配を先送りにするそんな人生になったのか。

言葉にすると滑稽なものだけど。

 

でも、ある時、気がついた。

人はだれでも、自分の物語を生きているのだと。

決して華やかではなく順調でもない。順調だとしても途中で躓いたり、どんくさいスタートだとしても美味しい思いができたり。絶望の中に希望を見出したり、希望の中に失望を見たり。あるいは、失望の中に絶望を、希望の中に夢をみたりもする。

金もないのに借金が増えたりもすれば、駅から歩く道すがらにスキップしたくなる夜もある。

誰もが二度見するような華やかの美女の影に、過酷な運命に翻弄される人生があったり。

 

自分に授けられた自分という人生を生きていくしかない。この人生と違う人生はない。病気の俺は病気ではない人生はないし、女にいろんな感情を担がされる人生以外の人生もない。金を稼いで誰かのために使い続けるのも人生で、金じゃないものに幸せを感じるのも人生。障害を持って生きるのも人生だし、一人で孤独に生きるのも人生。どうなったとしてもそれは自分の人生だろと思う。

自分にさだめを不幸と思うのか、それとも幸せを見つけるのかは努力なのであって。

 

自分の運命に逆らうから不幸になるんだと思ってる。

自分じゃない人生を夢見るから、金も信用も、もしかしたら失わなくていい人間関係も無くすんじゃないかと。

それをやるべき人生なら、何がどうなったってやるんだから。

今ここにいる人生は、偶然でもなければ、自分が選んだ選択の結果でもない。必然でしかない。考えてみれば当たり前のことで。

 

だから、いま目の前にある仕事や人間関係を、丁寧に扱ったほうがいいと思うよ。

 

 

【pairs】Facebookで恋活・婚活

大丈夫じゃなくたっていいだろ。

こういう言い方をするのは好きではないが、大人になるって本当に嫌だなと思うことがある。

 

18歳のころ、もうすぐそこに大人が近づいていた時期、大人になるということを考えるとちょっとゲンナリしてしまって、なるべく考えないようにしていた。当時付き合っていた彼女は、勉強の成績も優秀な優等生タイプで、卒業したら入学するつもりの大学の情報や、借りるアパートの立地や間取りなんかもしっかり調べていた。ピンク色のノートに調べたことを整理して書いていたり。

「アキラは卒業したらどうするの?」と、学校帰りにいつも立ち寄るファストフード店のテーブルで彼女は俺に訊いた。

「え?まだ9月だよ?」俺は答えにもならない答えを言った。「卒業は3月じゃん。」

彼女は、呆れたような顔をして「大丈夫なの?」と俺に言ったんだ。

何が大丈夫なのか俺には分からなかったけど、とりあえず大丈夫だよと言った。だって、俺、頭は馬鹿だけど健康だよ。懸垂もできるし逆上がりも出来る。漢字は書けないけどデンマークの首都は覚えてる。おまけにセックスもできるぜ。

そう言いたかったけど、言う雰囲気ではなかった。

その頃、俺にはもう一人いつも遊んでいるSという女の子がいて、その夜、Sの自宅に遊びに行った。Sは一人暮らしだったんだ。Sの母親はずっとシングルだったけど、1年前に彼氏が出来た。転勤族だった彼氏についていきたいとわがままを言い、別れた夫にもらった古い自宅にSを残してさっさと東京に行ってしまった。「たしか吉祥寺ってところにいる」と言っていたが、俺にはそれがどこにあるのかは知らなかった。

Sの自宅でカルピスソーダを飲んでからウイスキーを飲んで、浮かれて大騒ぎしながらセックスをした。

そのあと俺は聞いたんだ。「大丈夫なの?」

「は?」Sは煙草に火をつけて笑った。「何が大丈夫、なの」

Sは手を伸ばして、汗で濡れた俺の長い前髪に触れた。

「何がだろうね」俺はそう言った。

そうだな、大丈夫って何がだろうね。別にあと二年もすれば20歳のジジイババアになるよな。30年も過ぎたら48歳で、俺なんかとっくに死んでる予定だし。

「死ぬまで生きるだけだよ」Sは笑って紙コップにウイスキーを注いで飲んだ。

そう。大丈夫って、きっと、親が理解できるまっとうな大人になるための準備は大丈夫かって意味なんだろうな。親が理解できる進路、親が理解できる職業、親が理解できる交際相手と交際の仕方、親が理解できる結婚、親が理解できる自分との付き合い方、親が理解できる子育て。それを外れたらきっと不安になるんだろう。

なるほどね、大丈夫かって。大丈夫じゃないな俺は。

じゃあねって言ってSの自宅を出たのは深夜の3時。自転車で坂道を駆け下りて右に曲がると、そこは俺が好きな景色だった。まっすぐで大きな歩道に街頭が並んでいて、自転車のタイヤが舗装のつなぎ目を踏むたびに音を立てる。

大丈夫かって、大丈夫だよ。俺は死ぬまで生きるだけさ。そう独り言を言って、俺が邪魔者でしかない築40年のぼろ家に帰った。あと半年したらここは出ていく。何をするのかって、何をするのかすら決まってないけど、それで大丈夫じゃないって誰が言える。死ぬまで生きるだけさ。

 

18歳の4月には俺は東京にいた。不思議な縁から夜の世界に足を突っ込んで分かったのは、大丈夫じゃない大人がたくさんいるということ。あんなに大人になれない、ならないおっさんばかりいるなら、俺はそれでいいやと思った。大丈夫じゃない人生の中で出会う人は、魅力的な人か、ぶっ殺しても構わないほどの大便野郎か、どちらかしかいない。大丈夫じゃない人生でもたっぷりの金とおっぱいの大きな美女と、それと友達がいれば、別に他人の評価なんか無価値だよな。そう思った。

 

でも、それからずっと大人になってみて、とっくに死ぬはずだった30歳も越えて生きてみて、気づいたら、あの「大丈夫なの」という言葉に似た価値観を持ちそうになっていることに気づく。

もちろん親の目線のことじゃない。

「この事業計画で大丈夫なの」

「このコミュニケーションで大丈夫なの」

「この資料は大丈夫なの」

「この利益で大丈夫なの」

「この目標遂行率で大丈夫なの」

「こんな付き合い方で大丈夫なの」

「そもそも、俺で大丈夫なの」

そんなたくさんの「大丈夫なの」を繰り返しそうになる。その先は、もう大人なら知っていると思うけど、そこはやりがい搾取村しかない。

ろくな給料ももらえず、年収350万円くらいで、人間的成長とか自己啓発とか能力開発とか自分で言い出し、金よりやりがいみたいな気持ち悪い奴隷になって定年退職まで生きていく。一流の奴隷になるために、安い給料からさらに「自己投資」してセミナーに参加したりする。

あるいは、丁寧な暮らしみたいな言葉に踊らされて、パンケーキミックスを使わずに一から材料を集めて作ってみますとか、気の利いた彼女になりたくてなんか馬鹿な女みたいに媚びまくって彼氏と付き合うとか。自分から自分という人生を搾取するようなものだよね。

全部、自分が抱える「大丈夫になりたい」という妄想からくる妄動だよ。

大人なら考えてみたら分かるはずだよ。その先にたいした幸せがないということくらい。

 

大丈夫じゃなくたっていいだろ別に。死ぬまで生きるだけさ。

 

もう少し、大丈夫じゃないくらいいい加減でいいと思うんだけど。

就職しなくたって金は稼げるし結婚だってしていいんだよ。

別にセックスしなくて処女のままだって、恥ずかしいことないんだし。

転職歴が10回あっても、それがだめだという人間がいる会社に就職しないことが幸せだってこともある。

学歴が中卒だろうと高卒だろうと、年収1000万円くらいなら学歴関係ないし。

 

約にも立たない大丈夫をいくつ集めても、絶対に幸せは来ない。

この瞬間の人の気持ちに敏感な人間以外、何をやっても大丈夫にはならないわけで。

 

【pairs】Facebookで恋活・婚活

精神疾患が家族にいると、家族が壊れる本当の理由

精神疾患にもいろいろあるけれど、うつ病やパーソナリティ障害の患者がいる家族は、多くの場合家庭がぎくしゃくしている。

最初は家族も献身的に面倒見てくれる。親とか旦那とか妻とかきょうだいとか。職場も気を使ってくれる。みんな、原因を作ったのは自分がストレスをかけたからじゃないかって反省もあるからね。最初は、ゆっくり休みなよって言って、なんでも好きなようにさせてくれる。仕事はいかなくていいよ、仕事こなくていいよ、良くなるの待ってるよ、焦らないでね、頑張らないでね、とか言われてね。

でも次第に家族との関係も、職場での立ち位置も、ぎくしゃくし始める。家族の誰からが苛立ち始める。特に苛立つのは、父親と上司。父親からきつく言われる母親が次に苛立ち、上司の次に同僚が伝染するように苛立ち始める。

精神疾患の本人はその理由がなぜか分からない。

自分が病気だからこうなんだ、病気だから迷惑なんだと、考えてしまう。お金稼がないからこうなんだ、とかね。

本人はどんどん追い込まれていき、病状は致命的なものになってしまう。

 

でも、原因は違うところにある。

家族が優しく、家族思いであればあるほど、事態は混乱していく。

精神疾患が家族に1人いると、家族が崩壊する本当の理由は、

「正確に物事を伝えようとする感受性がヒトカケラもない」家族が一人いるせい、ということなんだよね。

 

精神疾患だけじゃなく、この正確に伝えることが大切だって思ってない人が家族にいる場合、必ず人間関係が壊れる。

 

例えばこんな感じ。精神疾患じゃなくても、普通の家族でも。お父さんが、少しグレて引きこもりになった息子がいる家庭。

家族思いの父親が、息子の様子をお母さんに訊きたいとする。

 

父「あいつはずっと学校行けてないけど、今日は何してたんだ?」

母「部屋にずっといたと思うよー」

父「部屋にいて何してる様子だった?」

母「ゲームしてるだけだと思うよー」

父「・・・いや、俺は正確に伝えて欲しいんだよね。ゲームしてるだけだったら学校行けるんだし、それだとただサボってるだけということになるだろ」

母「そんなこと言われても、あの子の正確な気持ちなんか分からないから苦労してるのに・・・」

父「正確な気持ちを教えてくれって言ってない。」

母「そんなこと言われても・・・」

 

たぶん、この家庭はそう遠くないうちに壊れる。グレてるとか、引きこもってるという異常事態が起きた時に、この母親に「正確に伝えることの意義を理解する」という感受性が欠けているせいで、物事は絶対に進展しなくなる。

 

ここで、父親が求めていたのは、息子の正確な心の内を教えろということではないよね。それが正確に伝えるということじゃない。

父親が聞きたかったのは、「自分と同じ保護者であり、同じ目線で心配している母親が、息子と接してみて何を考えたか、何を感じたか、問題解決に向かって何ができそうか、何が障害になっているのか、明日はどうしようか」という、母親の主体性なんだよね。

でも、この母親は主体性もなく自立もなく、社会経験もないんだろう。正確に伝えようとすることで、同じ立場で相談する、問題を共有する、共感し合う、ということが出来るという実体験が一度もない。

言い方を変えると、問題解決のプロセスを経験したことがない人間が家庭に1人いると、簡単に壊れるってことだよ。

 

この母親と接していると、父親は次第に苛立ってくる。

おととい、学校の先生が家庭訪問してきたということを後で何かの拍子に耳にし、愕然とする。そういう「事実」さえ伝えることが出来ない人間なのかと。そんな能力しかない女なのかと。

先生が訪問して何を言ったのかも、質問しないと出てこない、それもどうやら不正確なものらしく。

 

そうすると、引きこもりとかグレるっていう本人の問題が、母親によって悪い方に増幅され、家庭が複雑に混乱していく。でも母親は子供に言う。

「お父さんが悪い」

「あなたは何も悪くないのよ」

でも子供に言わるだろう。

ババア、ムカつくんだよ顔見せんじゃねえよ。って。そして母親はさらにそれも父親のせいだと思い込む。

 

精神疾患の場合も同じだ。

本人の病状ではないところで、周囲が混乱していく。

 

もし家族に、正確に伝えることができない人がいる場合、やらなければならないことがあるんだよ。

それは、この家族だとしたら、父親が全部を背負うということ。

父親が、母親も息子も丸抱えし、息子を治してやるために母親を利用してうまくやろうと覚悟すること。共感や共有ははなから諦めること。

 

仕事でもそうだよね。問題が起きた時、問題解決のプロセスを踏めないような能力のない同僚ばかりだったら、自分が全部仕切るしかない。でも仕切ってると分かるとそっぽ向いてしまうのも能力のない人間たちだから、持ち上げつつ、褒めつつ、問題が解決するように自分が全部をコントロールするようにしなきゃならない。

問題が起きても、自意識が大切な人なんて、ものすごく多いんだよ。優秀な人はその事実に打ちのめされそうだけど、それが現実だから受け入れなきゃならないね。

 

正確に伝えることの価値を知らない人には、そもそも関わるべきじゃないんだけどね。

 

 

【メンタリストDaiGo監修】運命より確実な出会いを
心理学×統計学の恋愛婚活マッチングサービス「with」

猿真似をしなくてもいいんじゃないかな

俺は、自分が持っている重い発達障害の症状について、成人をとっくに過ぎるまで未診断のままだった。

家族が気付いて診察を受けさせたりすることは全くなかった。日常生活をきちんと送る能力がなかったせいで、親からは激しく虐待を受け、学校ではみすぼらしい姿になるまで暴力的にいじめられた。人間関係を築くのが絶望的に無理だったので、いつも1人で過ごしていた。学習能力もかなり遅れていたしね。

ずっと大人になってから、ああそうか、若い時にあれだけ苦労したのは自分の障害のせいだったのかって、診断名があれほど救いになったのは驚いた。まあ診断がついたとしても、日常生活でできないことは今も山ほどある。

例えば・・・

時間に遅れないように目的地に着くこと。

誰かに機嫌よく接すること。

誰かの気持ちを理解して、的確な返事をすること。

多くの人に共通する感性を持って、「それ分かる」って本当に思えること。

たくさんの人の輪の中に入って、人気を集めるように振る舞うこと。

恋愛すること。

人の期待を理解して応えること。

挙げていくとキリがない。そういうことが基本的にできない。

でも、それでは社会生活は送れないよね。18歳で東京に出てから、生きていくために手にとった職業は、夜の仕事だった。想像に難しくないと思うが、そこは普通の人よりもはるかに一般的な常識が必要で、コミュニケーション能力が尖っていることが必要で、かつ、いつも機嫌よく人気を集めるように振る舞わなければならないよね。

 

基本的に無理なわけだよ(笑)でも、俺はずっとその世界の住人でいることができた。その当時は自分の障害なんて知らなかったので、ずいぶんとしんどい思いをしたもんだ。普通の人が覚えられることが覚えられず、やれることがやれないからね。客に電話をするということが苦手で、もう終わってるんだけど、電話をかけて営業をするってことが死ぬほどつらかった。(やったふりしてやらないことのほうが多かった。)できないばかりに死ぬほど怒鳴られる每日。

 

じゃあどうやって生き延びてきたのかって、答えは簡単なことで、正確な呼び名は知らないけど、「パターン学習」と「オリジナリティ」のおかげだと思う。

こんなことがあったら、人はこんな気持になるのが「正解」なんだと、数千、数万パターンの感情の動きを記憶するのがパターン学習。この感情になったらこれを言う、っていう模範解答のようなものも覚えていく。そこに共感っていう心の動きはないんだよ。だって俺は一般的な感性の流れがなかったから。ただ経験と知識で自分の脳味噌をアップデートしていくしかなかった。

 

時間に遅れないようにするっていうことも、解決策はちょっと極端で。約束の1時間前に着くように行く。それだけ。相手のためにとか、そういうことじゃなく、1時間前に行かなければ死んでしまうと思い込ませて、必死になって行った。時間があるからって服屋をのぞくなんてことも禁止。待ち合わせ場所で一時間立っているのがルール。

そうじゃないと、まともな人間のように見えなかった。

 

でもねえ・・・それを一般的に何ていうかっていうと、「猿真似」だよ。

 まともな人の振る舞いを猿真似して、自分じゃない人間になろうとするわけ。苦しいよこれは。

20歳の時、おいしいチーズケーキのお店があるよって言われて一緒に行っても、味覚が死んでるのでよく分からない。匂いしか分からないから、匂いを嗅ぐとチーズケーキってくっせえし。バニラとゲロに臭いがする。でもそんなこと言えないでしょ。

わー、おいしいなあって、笑う練習は何度も繰り返すんだよ。俺が美味いと思うのは、当時キャラメルコーンとコーラと葡萄と味噌ラーメンだけだった。そんなことも言えるわけがない。

 

あとは、オリジナリティ。電話ができなくてサボってばかりじゃ売上立てられないだろ。やらなきゃならない。

でもならなきゃならないっていうのが無理なわけ。無理なもんは無理なんで、違う方法を考えなきゃならない。楽譜が読めないし覚えられないから、自分オリジナルの記号を開発しました、みたいなものだよ。

電話するのではなく、向こうから電話がかかってくる変なやり方を思いつき、そこの一点をひたすら磨いた。俺はひたすら電話を受けていればいいだけ。そんなのまともじゃない、きちんと基本通りにやれって何度も怒られたけど、結果は普通以上に出した。結果が出ていれば、まあ我慢してもらえる。認められはしないけどね。無視くらいはしてくれる。

 

ということで、俺のコミュニケーション能力の根本は、アップデートを繰り返した末の単なる小手先のスキルでしかない。

仕事の方法も、今も同じ。業界の常識から相当離れている。それは違う、それは間違っていると何度も指摘されてきたし、不正を疑われることも多いけど、でも仕方ない。俺がオリジナルで編み出して磨き上げた方法だから、俺はそれをやるだけ。それ以外ではできないから。

 

俺と同じ障害を持って苦しんでいる人がどのくらいいるのか分からない。そういう人達に俺が言いたいのは・・・

 

もうそろそろ、猿真似ごっこはやめませんか?ってこと。

 

自分以外のものになろうとしたり、まともな人間を気取って、気持ち悪いことを言ったりやったりするのは、もう終わりにしませんかってこと。

周りと同じ人間になるように努力しても、幸せになれなかったじゃないかって、もう受け入れる時が来てるんじゃないですか。

 

できないことはできない。

やりたくないことはやらない。

付き合いたくないものにつきあわない。

喧嘩になりそうなら、逃げる。

いじめられそうなら、逃げる。

学校行きたくないなら、行かない。

仕事がもうやりたくないなら、辞表出しに行く。

大学行きたくないなら、行かない。

実家のお父さんお母さんと一緒に住みたいなら、住む。

住みたくないなら、住まない。

金を稼ぐために、大金払って無名な私立大学に入学する必要はない。

スペックなんて言ってる学歴コンプレックス野郎とか、そっと距離を置く。

性格が会わない彼氏彼女なら、別れる。

彼氏の親が自分を悪く言うようなら、別れる。

 

自由に生きていいと思う。

仕事は、自分に合う仕事を自分で生み出せばいいし、

1人で生きていくと決めれば、急にわくわくもするよ。

 

自分以外の何者にもなる必要はない。自分のままで、自分の目標に向かって、自分のやり方で、1人孤独に打ち込んでいって、お金を稼げばいい。

 

誰からも褒められなくても、誰も自分の活躍を知らなくても、別に大した問題じゃないだろ。

 

 

世界最大級の恋愛・結婚マッチングサイト

理解してないなんて、絶対ないんだよ

人は、大切な人から自分のことを「正確に」理解してもらいたいと思っている。

 

彼女でも彼氏でも、夫でも妻でも、兄弟姉妹でも親子でも。自分のことを正確に、誰よりも正確に理解する「理解者」でいて欲しいと思っている。

 

自分の気持ちのこと、自分の悔しさのこと、自分の寂しさのこと、自分が受けた理不尽さのこと、自分が持つ夢のこと、自分の理想のこと、自分の快適さと不快さのこと。

大切な人だからこそ、理解してほしい。それはもしかしたら、理解してもらいたいという言葉で表した、「守ってもらいたい」という欲求なのかもしれない。

 

でもどうだろう。そういうことはありえるだろうか。

 

例えば。不倫関係を考えてみる。

結婚していると配偶者との間には、むしろ溝が広がっていくように感じるかもしれない。あれだけ好きで結婚したのに、あれだけ一緒にいて楽しかったのに、今は一緒にくらしていながら一番遠い存在に感じる、って。

だからふとしたきっかけがあると、不倫を自分に許してしまう。

不倫っていうのはいつの時代も楽しいもんだよ。最初の数ヶ月はね。妻や夫が言ってくれないことを言ってくれる。ありがとう、素敵だね、かわいいね、かっこいいね、仕事頑張ってるね、お疲れ様、おやすみ、応援してるよ、いろいろだ。セックスもそうだ。妻や夫がしてくれないことをしてくれる。妻とできないことができる。夫では感じることができないものを感じる。

そして夢中になってしまう。妻よりも俺のことを理解してくれていると思う。夫よりも自分にぴったりの存在なんだと信じ込んでしまう。二人とも思うだろう。

これは運命なんだ、って。

 

ところがそれは単なる幻想幻覚なんだって、薄々気づき始める。不倫の関係から数ヶ月も経てばそう気づき始める。

これはうちの妻じゃ言わないことだよなっていう無神経なことを言う。これはうちの旦那じゃありえないだらしなさだなって思う。

あれだけときめいていた不倫相手にげんなりしてくる。妻じゃありえない化粧の長さ、妻じゃありえない料理の下手さ、妻じゃありえない気分で機嫌をコロコロ変えるところ、妻じゃ絶対しない服や化粧品の衝動買い。

夫じゃありえない女癖の悪さ。夫じゃありえない酒の量。夫じゃありえない仕事の愚痴。夫じゃありえない金の管理のずさんさ。

そしてある日の夜。密会しようとシャワーを浴びている時にふと独り言がついて出る。

「もう別れたい」

 

そもそも、正確に相手を理解しているなんて、ほとんどありえないと俺は思う。

数値で表すことなんかできないけど、感覚としては良くて75%だろう。でも大切に思っているパートナーであれば、いくら最低でも60%は理解しているとも思う。

60%~75%の差しかないんじゃないかと。

 

いやいや違うよ、うちのヨメは俺を理解してねえし!ってムキになるかもしれないね。

たとえば、家族思いの夫がいるとする。でも妻はあまり感受性が豊かではない。家族のために尽くしてきたことを、ありがとうと言うことがない。

ある日夫は妻にLINEで言う。

妻と娘のために、奮発して低反発の高級枕を買ってきたよ、最近眠れないって言ってたじゃん、って。

妻の返事はこうだ。

「了解。」

おいおい。ありがとうとか、どうしたの?とか、もったいないよとか、いろいろ反応あるんじゃないかなと憤慨する。あの昔の不倫相手なら、「ありがとー!」って返事が来て、ハートマークも付いていただろう。なんだ、了解って。タクシー運転手の無線か。

そしてそのことも我慢できず、妻に文句を言う。俺はありがとうって言って欲しい、俺はこの家でないがしろにされている、なんて。

そしてまた妻は言う。

「そっか。じゃあ私はどうしたらいいのかな?」

だから、俺の気持ちを理解してほしいんだよって夫は言う。そして妻はまた言う。

「いつも怒ってばかりだね。奥さんは私じゃないほうがうまくいくんじゃないかなって思う。」

だからー・・・・・、大切に思ってるから枕買ったの、眠れないって言ってたから少しでもリラックスできるように高い枕買ったの、怒ってばかりじゃなくて、俺の気持ちもあ・る・の!

 

なんてね。

 

でもさ、そんな奥さんだって、60%は理解してるんだよ。お金だしてわざわざ買ってきてくれたこと。もらってきたり拾ってきたわけじゃなくて、お金払って、わざわざ店まで足を運んで、時間を費やして選んでくれたことくらい分かってるはずだよね。

だったら、了解。って返事でもいいんじゃないの。まるで職場のおっさんとLINEしてるみたいなやりとりでもさ。昔の不倫相手みたいに機嫌よく接してくれないかもしれないけど、理解はしてると思うよ。アウトラインくらいは。

 

でも違うんだ。みんな、大切な存在であればあるほど100%を欲しがる。正確に、一言一句間違わず、気持ちのブレも全部ひっくるめて、正確に理解し、言って欲しいことを言ってくれるのを期待する。

それが腹が立つのは、自分がないがしろにされているという疑念だけじゃない。

このズレ方が、もしかしたら重大な家族の問題に発展するんじゃないかと怖くなるからだ。感性のズレでお金の問題を起こすんじゃないか、教育の間違いをするんじゃないか、家族が離散してしまうんじゃないか。

そんなこと絶対ないのにね。問題があったところで、きっと大したことがない問題だよ。大切に思う家族や恋人関係の間で、そんな致命的な問題はきっと起こらない。起こらないはずなのに、無理矢理問題を起こすようなことは止めたほうがいいよね。

 

大切な人同士で、問題は何も起こらない。

大切な人同士で、理解してないなんてことは、多少あるけど致命的ではない。

 

そんなことより、その場所にただ一緒に集まってくれしていることに感謝したほうがいい。

結婚していなくても、深夜に電話したりする相手がいることに、感謝したほうがいい。

 

【pairs】Facebookで恋活・婚活

何度目かの生まれ変わり

突然のことで、何も予告しませんでしたが、Twitterのアカウントは削除しました。

別に何かメンがヘラったわけではなく、凍結されたわけでもありません。

ただ、このゴールデンウィーク中に考えてみたのですが、そもそもの俺のブログの使命というか、必要な人に言葉が届くようにって考えたときに、Twitterの俺のアカウントでは弱すぎて何の意味もないなってことでした。

もちろんTwitterはかなりの初期からやっていて、思い出もたくさんあったんですが、そんなことより俺には言葉を届けなきゃならない相手がいるなと思ったわけです。

言葉を乗せて、必要な人にもっと届けるための「言葉の小舟」としては、アキラというおっさんがしこしこツイートしているアカウントではちょっと力不足でした。

 

こんなことを言うと、「メッセージ性のあるものを書くやつはクソだ」とか言う人もいるよ。その気持はよく分かるし、反対しない。別に俺なんかのブログで世の中がなにか変わるとは思ってないし、それは俺の使命じゃないと思う。

でも、今日、このゴールデンウィークの晴天の空の下で、人生どん詰まりだって思ってる人ならいるんじゃないか。その人にとって、明日もとりあえずやってみるかって感じてもらうことはできるんじゃないかなと。

 

俺はあれだけ苦しんだ子供時代、高校生時代、そして18歳からの時代、多くの言葉によって救われてきたと思う。言葉を喋ることができなかった子供時代、漢字は読めなかったけど、ひらがなで書かれた絵本の言葉は読むことができた。都会の片隅で存在が消えそうなほど寂しく虚ろだった18歳の時、恐ろしく時間が経つのが遅い每日を癒やしてくれたのは近所の本屋や、新宿の紀伊國屋書店や、古本屋やコンビニで買っては読んでいたたくさんの本だった。

本の中でたまにめぐりあう、リアルなフレーズや、新しい言葉に、いつも自分のみじめな人生を置き換えては心を落ち着かせようとしていた。

ラブレスキューの時代、俺は自分で言葉を手帳に綴ることで、そもそも向いていない夜の痴話の世界で心を誤魔化していた。

俺は、誰かの言葉で自分の人生が救われるという経験をたくさん持っている。

だから、俺は「アキラ」として、なんらかの形で言葉を必要としている人に届けばいいと思っている。

 

誇大妄想だと馬鹿にするひとも多いだろう。ネット弁慶の子供たちがよってたかって批判してきたことも多い。それでも、多くの女性、多くの男性、若くてもおじさんでもおばさんでも、独身でも既婚でも、言葉が届いていた人がいた以上、俺の役割は絶対にあると信じている。

 

ポエムを書いて悦に入るつもりはない。俺のブログは、ここを読むあなたの人生を救うためにある。

俺は何の資格もなく、学歴もなく、人に偉そうに語れる立派なキャリアもない。発達障害の脳味噌を抱え、一時はホームレスにまでなり、人から馬鹿にされるような仕事をして金を稼いできた。でも、なんとか、人生って最高だなと思えるような愛の経緯や、仕事での成功体験、障害を受け入れるスキルを味わってきた。

それだけでも人になにか届けるものはあるだろって固く信じている。

 

このブログの更新通知は、大昔からの仲間である美咲のTwitterアカウントを通してお届けします。ぜひ、美咲のアカウントをフォローしてくださるようお願いします。エロいツイートはしないように言ってありますので、ご安心ください。今後は無意味なエロは自粛するはずです。

twitter.com

 

これからもアキラブログをよろしくお願いします。

このブログをもっと呼んで頂く方法を考えながらやっていきます。

 

非正規な人生だけど悪くねえよな

こんな経験がある人は、結構いるのかもしれない。

例えば、Facebookで。前職の同僚の誕生日にはものすごい数のメッセージの山が投稿されているのを見かけるとする。すごいなと思いながら、自分はそのメッセージのいくつかを読んでみる。

「いつも●●さんの人柄を尊敬しています」

「いつも●●さんの熱い指導ありがとうございます」

「●●さんのようになりたくて、わたしも頑張ります!」

とまあ、ずいぶんと人望がある様子だ。それを見て、自分はちょっと凹む。自分にそんなことを言ってくれる人は1人もいないなあ、と。尊敬されてるなあ、大人だなあ、と関心する一方で、俺はずっと価値のない人間なんだろうなあと卑屈になったりする。

 

あるいは、友達の女性の誕生パーティ。一応お呼ばれはしたのでプレゼントを持参して行った。すると、そこには大勢の人だかり。こんなに友達いるんだ!!って驚いていると、誕生日の友達は大量のプレゼントや花束で埋まりそうになっている。幸せそうに笑顔で、みんなありがとうって言っている。

愛されてるなあと、あなたは思う。自分だったらどうだろうと。きっと誰も自分の誕生日をこんな風に祝ってくれないだろう。自分は、あの子よりもずっと価値のない女なんだろうなあと卑屈な気持ちになりながらも、周りに合わせて大声で笑っている。そして帰る道すがら、お酒でぼんやりしているけれど、気持ちは来たときよりずっと沈んでいる。

 

どちらも、きっと眠る前のベッドの中で思う。自分はあんな風になれるんだろうか、自分はあんな風になれていないってことは努力をサボってきたんじゃないだろうか、それとも自分の顔がキモいからだろうか、それとも自分はなにかのせいで嫌われているんじゃないだろうか。

結局モヤモヤしたまま眠りにつく。朝起きると忘れているときもあるし、また引きずっているときもある。そしてまた一日を必死に生きようとするけれど、そんな人生は上手くいかないみたいで。

それを繰り返して20歳、30歳、40歳、50歳になっていないだろうか。

 

実は俺もそうだよ。ずっと劣等感だけを育てて大きくしてきたような気がする。何をやってもメジャーになることがない人生だしね。

少なくとも、その世界でメインストリームにいたことがない。性欲おばさんのパンパンしてたガキの頃も、会社員をしていても、起業してからも、風俗業界にいても、そして今も。

メインストリームではなかった。いつも、ビルとビルの間をすり抜けて入ったところにある隠れ扉の奥で生きている感覚だった。大手を振って歩ける華やかな人たちを遠くで見ている俺は、1人暗い地下室でしこしこと褒められることのない、でも売れるのは間違いないいかがわしいビデオを制作してるようなもの。

親にも教師にも近所の人にもきっと褒めちぎられる人生もあれば、俺のように姿を見せただけでみんな眉間にシワが寄るような人生もあるわけね。

 

そのことで悩んでないかい?って話。

 

あくまで俺の個人的な体験で話をするんで、そうじゃないって言う人がいてもいいんだけどね。

それは、自分が世間一般とずれているから仕方ないって思いなさいって感じ。

だってそうでしょ。

世間の人が理解できるような、最大公約数みたいな人生を生きられるほどまともじゃないでしょ。人柄を褒められるような生き方できるほど、脳味噌まともかよって。俺はそうじゃないよ。発達障害で何もかもピントがずれてるんだから、やることなすこと他人にはちんちくりんに見えるだろう。それどころか、多くは怒っているだろう。やればいいと分かっていてもやれないこと、やりたくないことが多すぎるんだから仕方ないよね。

そりゃ無理でしょうよ。

Aのことを→Bという感じでやれば→Cという評価が得られるのが世間一般なのに、俺はAのことを→Bとやるのは抵抗があるので違うやり方をして→かなり遠回りして→Dという見当違いな成果を出してしまい→Eという賛否両論の騒ぎになってしまう、という感じだ。それだと、俺のことを好きでいてくれる人もいるし、嫌いになる人も出てしまう。決められたやり方をできないんだから、人望なんて絶対あるわけない。

 

なぜBというやり方ができないのかって、別にひねくれているわけじゃなくて、できないからできないとしか言いようがない。

やれないんだよ。馬鹿だから。それに気持ちが悪かったりして抵抗があるから。要するに何か精神的な障害があってできないことが多い。

 

これは人間関係でもそう。仕事でもそう。恋愛関係もそう。なんでもそう。どんどんニッチで仕事するようになるよね。

 

これはもう、そんなもんで自分は仕方ないって諦めて受け入れるしかないよ。メインストリームに入れるほど脳味噌まともじゃないから、自分はニッチで生きるんだって決めること。非正規な人生なわけだよね。

非正規かもしれないけど、その人生は決して悪くはない。誰かの価値観で生きることもなく、自分の価値観で、自分の人生を自分のやり方で生きるんだから、結構いいだろ。人望がどうとか言われない代わりに、あなたに失望したとか勝手に評価を下げられることもない。自分の人生を自分でコントロールするのはいい人生だよ。

 

変に努力しちゃって、人望を追い求めていると、簡単に病むと思うよ。プレゼントたくさんもらえる人気者になろうとしたら、絶対に無理なことを每日しなきゃいけなくなる。それは自分じゃないだろ。

 

自分は自分らしく、堂々と生きればいいと思うよ。