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結果主義では間違いを犯す

社会人になって10年くらいになると、次第に、「人からの評価」って気になってきたりするよね。

同期のやつらは半分近くが退職していなくなり、反対に何人かは頭一つ抜けて昇進し始める。

そんな時に、自分は未だに現場で新人の時と同じことをしている。もちろん10年もやってるからスキル的にはものすごく磨かれている。新人には何がすごいのか理解できないほどスキルがとんがり始めるのも10年くらいのキャリアだよね。

でも、スキルがとんがってるはずなんだけど、業績がいまいち平凡。去年も、一昨年も、3年前も、ずっと同じ。ダメではないが、業績で目立つほどでもない。

 

そんな自分は後輩からどう見られているんだろうってふと気になるもんだ。

先輩先輩って慕ってくれはいるけど、時々新人の業績にすら抜かれるときがある。そんな自分を見て、後輩はどう思ってるんだろうか?

それ以上に、上司はどう思ってるんだろうか?派手な業績を出してチヤホヤされて、あっという間に昇進していく同期と比較しているに違いない。別に露骨に非難はされないけれど、きっと俺の評価は低いに違いない。俺はこんなにスキルが熟成されてきたのに、誰も評価しない、それは俺の業績が平凡だからだ・・・ってね。

 

俺は今まで評価される側だったり評価する側だったりしたけど、人の真価を測るってすごく難しいもんだよね。

例えば営業とか販売とかだったら、「結果」として数字って明確になる。だから評価し易いって思うじゃない。でも違うんだよね。数字が全ての営業マンの仕事ですら、数字だけで評価したら絶対に間違いを犯すんだ。

 

学生だとして、中間テストの点数だけで全てを判断したら、担当の教員は間違いを犯してしまうよ。

 

なぜなら、「実績主義」「業績主義」「結果主義」は、利益を生み出すだけのことで評価や判断基準には絶対使えないんだよ。

結果にシビアな世界ほど、実はプロセスをよく見てる。

 

分かりやすく学校のテストで言うと、中間テストとか期末テストって、ワークブックとか渡されたプリントとか繰り返せば点数は取れるよね。70点とか80点分は同じ問題が出るんだから。だから要領かませば、90点もいける。

資格の試験もそうだよね。過去問繰り返せばたいてい合格できる。テキストなんて軽く読むだけでも資格の認定はされたりする。

営業の仕事も同じ。たまたまのヒットは必ずある。でも再現ができない。100万円売り上げましたって言うけど、来月もそれ出来るの?再来月も?っていうと、無理なんだよ。

 

テストだったら、業者の統一テストで安定して75点取れてるやつは実力が安定しているだろう。90点が取れない理由も見つけやすくなる。

営業の仕事で、毎月40万円しか売り上げられないけど、もう5年もずっと安定して40万円やってるのを発見できたら、実力はあるので売上を70万円にする対策はわりと現実的になるだろう。

でも残念ながら、目立つのは中間テストで要領かまして100点だったやつだし、まぐれヒットで300万円を一発売り上げた営業マンだったりする。

 

なにはともあれ、結果出してるんだからそれが正義だ、みたいに考えてしまう上司や教員は、残念ながら無能だよ。

それを再現させるのは、ものすごく難しい。そもそも実力がないんだから、その結果はないのと同じなんだよな。ちやほやしてしまうから、本人も勘違いするし、余計に成長できなくなる。

 

風俗でもそう。夜のお店でもそうだろう。70点でいいわけじゃないが、40点でもなく85点でもなく、70点を安定継続させている地味な人間にフォーカスすれば、必ず楽に伸ばすことができる。

 

結果だけじゃなくて、プロセスとか継続性をよく観察すれば、力のあるやつを発掘できるよ。そういうやつらは、ちょっとしたことですぐに爆発的に成長するから。まぐれヒットして勘違いしたやつをちやほやしても、どうせすぐに辞めてしまう。一発屋っていうのはそういうもんだ。

 

もしかしたら子育てもそうなのかもしれないね。

安定して継続的に出来ている何かを発見すれば、才能を伸ばすことができる。

 

平凡な風俗嬢でしかない女が、その後の人生でぶっちぎりの成功を収めるのは、そいつの本当の実力を見抜く男がいるから。

要領かましただけの結果でちやほやされた同期が、そのうち腐って辞めてしまうのは、実力の無さを見抜けない無能な上司がいたから。

 

結果主義っていうのは、どうやら間違いみたいです。

 

電話はすぐに折り返せよ

最近、呆れるほど陳腐に成り下がった言葉の一つが「コミュニケーション能力」だと思う。

「あの人、コミュ力がある」とか大学生が言っている時、それってただ単に「他人の領域に土足で踏み込む無神経な人」のことだったりするよね。または、「人前でテレビの芸人の真似をする幼稚さ」とかね。目も当てられないほど勘違いしてる子になると、「人心を操作できる技術の達人」とか(笑)

残念ながらコミュニケーション能力って、人前で芸を見せることでもないし、他人を自分の思い通りに動かす胡散臭いスキルのことでもない。

 

他人の気持ちを深く聴いて理解しようとする努力のことだったり、

自分から毎日毎日、明るく挨拶ができることだったり、

他人のために自分の時間を犠牲にして何かできないだろうかと考える習慣のことだったりするわけね。

 

コミュニケーションの上で毎日戦っている人は、コミュ力ってスキルじゃないと知ってると思う。だって、それがスキルのことだとしたら、上達するまでに時間がかかるってことだろ。上達するまで素人でもいいって意味になるだろ。

そんなわけないよね。上達するまでにの間にも、今日も1人、明日も1人と、毎日誰かを怒らせたり呆れさせたりする。上達するまでにまともな社会生活からは退場させられる。

コミュ力って、今この瞬間からまともな能力を持っていなきゃ意味が無いんだよね。だからこそ、上に書いたシンプルなことが大切なんだよな。

 

特にさ、自分から、毎日毎日、明るく挨拶できることって本当に大切だと思う。コミュ力の半分以上はこれ。

たとえばコミュ力がなくて人を怒らせる人はこうだ。

 

自分の恋人にさえ、毎日「おはよう」「おつかれさま」「ただいま」「おやすみ」のLINEやメールができない。自分からすることはあっても気まぐれ。それどころか、返事をしないこともしょっちゅう。

コミュ力がない人は、ほぼ全員これ。

職場や学校ではどうかというと、やっぱり挨拶できない。

店で店員に挨拶されても、無視するか、「う・・・」みたいに首を少し前に出す素振りするだけ。田舎では特に多いよ。

Suburbiaは元は田舎のグループだったから、この傾向多かった。ほんと挨拶できねえんだ。お前らの無能な親の顔が見てえよって罵倒しても意味が分からない。

うす・・・とか、「%&#”@@¥・・・」みたいな訛ってるくせに口開かないで喋るやつとか、無言とかな。こういうのは怒鳴り散らしてやり直しさせるしかなかったけど、コミュ力っていうのは人間性そのものだからさ、結局挨拶できるようになる子はいなかった。仕事で生き残れる子は、

明るく、笑顔で、自分から、大きな声で、「おはようございます!」って言える子だけだった。スタッフの雅と紫音が帰ってくるスタッフたちと大きな声で挨拶してハイタッチをするというのが儀式だったんだ。それが気持ち悪いとかやりたくないって思う女はしょせん何やってもダメな女でしかない。客には挨拶してるからって言うわりには、クレームが耐えないし。

 

着信があるのにその日のうちにコールバックできない、電話出来ない時は非礼を侘びていつ返事するかのメールができない、LINEが届いているのに読んでない返してない、人を見かけたのに挨拶しない、会社じゃないところであまり話したことがない同僚を見つけたのに無視する、

そんなことが一度でもあるなら、コミュ力があるとは呼べないんだよ。いくらテレビの芸人の真似をしようが。

 

 

男の才能を潰す女、その意味を知らない男

沢山の美女と関わるということは、「その後」の人生もその人数分見てきたということ。

例えば、はっとするほど美しい顔立ちで、こんなに整った身体があるかと思うほどの細いボディにダイアン・フォン・ファステンバーグのワンピースを纏わせた女。美貌すぎる彼女にはたくさんの男友達がいて、毎日誰かがタクシー代を多めにくれた。タクシー代をもらって泊まるのは徒歩5分のアキラの家。騙された男がくれた金で買ったピザとビールを食い散らかしては気だるく朝まで過ごしたり。俺のスウェットが臭いと笑ったり。

 

そんな劇薬みたいな美女たちがその後どうなるのかって、誰しも興味があると思う。普通はこんな想像するよね。

「きっと、成功した開業医と結婚して裕福に主婦してるんじゃないか」とか

「嫌味な起業家の愛人になって、世界中旅行しながら贅沢してるんじゃないか」とか

「はたまた、男たちから引っ張り出した資金と人脈を使って商売をどかんと成功させたんじゃないか」とか。

もちろんそういう女性もいることはいる。でも、数えるくらいしかいないよ。数万人単位で女たちがいたのに、イメージ通りの派手な人生を送ってるのはごく数人。

多くはごく「一般的な」普通の人生に落ち着いている。

平均的な所得で印象の薄い見た目の平凡な夫と出来婚していたり、

びっくりするほどオーラが無くなってしまい、独身で職場のお局様として嫌味ばかり言うようになっていたり。

ドラム缶かよってくらい太ってしまい、子供が5人もいてお母さん幸せとかほざいてる夫がアルバイトしかしてない女とか。

それならまだいい。

中には、本当に成功した起業家や開業医と結婚したもののあっけなく商売が破綻し、すぐ離婚しては今度は二代目のボンボン社長と結婚したらまたすぐ倒産したような女がいる。

女と出会うまでは優秀な男だったのに、気がついたら他人からの信用も金も失い、死んだような目をして人を避けて生きるような暗い男にしてしまったり。

そう、一定数の美女は、明らかにさげまんなんだよね。美女たちの多くはよくて平凡な人生、悪ければ「さげまん」の迷惑な女に成り下がってる。

 

見てくれの美しさなんて、その後の人生にはたいした影響はないもんだよな。そう実感してる。

なぜなら、美女の多くはコンプレックスを抱えて育ってることが多いから。だから必死に外見を磨く。でもコンプレックスを抱えている心の問題を放置するから、あとでつけを払うことになる。身勝手で、自己中で、失礼ぶっこいても平気な顔した腐ったババアに成り下がってしまう。

 

美女の多くはさげまんだと思っても言い過ぎじゃない。想像してみてほしい。美しい見た目の女のわがままは、たいていの男は許してしまう。美しい女が自己中ぶっこいても、それがまた可愛いとかすぐ許してしまうよね。

だから女は中身が成長できない。びっくりするほど中身が幼稚なまま25歳になる。幼稚な女はいつも、自分にとって快適な環境ばかり求める。たとえば、夫が浮気しなくて?夫が毎月きちんと給料を入れてくれて?高齢出産と言われないうちに子供がほしくて?親が褒めてくれるような彼氏と付き合いたくて?自分の親のすぐそばに住みたくて?って感じで。そこに相手の人生について想像を巡らすことは全くない。

 

男は女にいちいち束縛されコントロールされる。美しい女に執着し依存する男は、なんでも言うことを聞こうとする。すぐに「ごめんね、ごめんね」と謝るクソ男に成り下がる。

大事な仕事の局面があって、明日のデートはキャンセルしなきゃならないんだけど、女が激怒する。もう別れると言う。だからデートはキャンセルしない。そしたら大事な仕事を失う。取引先にも馬鹿と呼ばれる。仲間にも凡人カスと蔑まれる。そういうことに気づかず、男はどんどん女との関係に執着していき、暗い顔つきをした弱っちい凡人になっていくんだよね。

 

どんなに才能がある男でも、どんなに仕事は優秀でも、男は美女が何で作られているか経験で知ってなければ、かならず美女に滅ぼされるわけ。

幼稚な美女は、病的に自分のことしか考えられない。男が生きているバックグラウンドや希望や理想、恐怖について自分ごととして考えることができない。

これがブスだったら、死ねデブとか言われて放り出されるだけだから害はない。美女だからそうされないんだ。美女だからどんなにさげまんでも男が依存するようになるんだ。美女は、男の弱さと幼稚さを増幅させて中毒死させる生き物なんだよ。

 

ダイアン・フォン・ファステンバーグの美女はその後どうなったかと言うとね。

付き合った男たちのうち、2人は自殺してしまい、1人はパニック障害、2人は適応障害みたいな感じになって、まあ仕事はほぼ全員失敗。会社員だった男は失業し、起業していた男は再起不能になってアルバイト生活。会社員はよくて左遷人事で行方不明。

40歳になった彼女は、今も美しいまま。見た目だけが。中身は自己中ぶりが病的で。40歳にもなってそこまで幼稚なら、もう結婚とか男と幸せに交際するとか諦めろよって俺は言うんだけど。

 

40歳で白髪の一本もなく、目尻に皺も見当たらない色白の美女を見ていると、

やっぱりね、男が破滅していくのも分かる気がする。本人はいたって普通に幸せになりたいだけなんだけど(笑)なにせ、自分の以外の人間の人生に心を寄せることが出来ないからさ(笑)無理なわけです。

 

美女ってさ、1980年代後半のマセラティみたいなもんなんだよ。背筋がしびれるほど美しいクルマ。でも、高速道路でいともかんたんにエンジンが止まる。俺も経験があるよ。マセラティ222で、真夏に。

しょうがねえなあ、可愛いやつだなって思えるのも最初の2回まで。そのうちトラブルは毎日になる。駐車場にガソリンぶちまけたり、約束の時間が迫っているのにエンジンが不機嫌だったり。

でもね、マセラティの運転席に座って眺める目の前の景色は、ほんと中毒になる美しさで。やめとけって言うのに、まだ乗り続けようとして最後は金もクルマも失うわけ。

美女も同じこと。

 

ダイアン・フォン・ファステンバーグがアキラに言う。

「アキラが結婚できないのは、女に捨てられるのは、自己中だからでしょ」

 

そのまんまお前に返してやるわ。その言葉。

 

 

 

 

どう?って質問されたらどう?

アキラブログで定期的にやってるのが、コミュニケーション講座。

俺が講座なんてやれるほど偉くはないんだけどさ。でも俺は自分でも底辺の乞食便所から這い上がってきた自負があるよ。生き残るためにはコミュ力が絶対だった。親とか友達とか女とかそういう他人からの援助も支援もなく、おまけに一時期は家もないアキラが「コミュニケーション能力」って言うとき、それは小粋なパーティジョークのことじゃなく、サバイバルすることと同じ意味なんだよ。

 

で、今日のテーマは・・・

「どう?に対応できますか?」というお話。

 

コミュニケーション能力が著しく高い人と、極めて貧相な人の会話を聞いていると、よく見る光景がある。たとえば

「○○くん、新しい職場はどう?」

「え、どう?・・・どう?・・・どうって・・・?」

 

「○○さん、最近仕事はどう?」

「え?どうって・・・うーん・・・なにが?」

 

結論から言うと、コミュニケーション能力が貧相な人は、「どう?」の質問に一切答えられない。

そもそも、どう?って言う問いかけは、フリーコメントでなんでも言って欲しいっていう意味なんだよ。新しい職場はどう?って言われたら、人間関係がまだなじめないんだよねでもいいし、変な人がいるんだよねでもいい、建物が古くてトイレが臭いでもいい。

最近仕事はどう?って聞かれたら、愚痴でもいいし、新しい発見があったよでもいい、困ってるんだでもいい。

どう?っていう大きい問いかけに対して、フリーでコメントを返すことで、さらに質問や意見が生まれる。その結果、実は新しい気づきが生まれたりする。そういえばあの時こう言ってたね、とか言って、ずっと後になって人脈を紹介してくれることにもなるかもしれない。

 

コミュニケーション能力が低すぎると、「はい」「いいえ」で答えられるような限定質問にしか答えられないんだよな。せいぜい、答え方が数種類しかない質問しか無理だ。

「新しい職場の上司はどんなひと?」もダメで、「新しい職場の上司の出身地はどこですか?」くらいまで限定した質問をしないと、答えられない。

 

これでは能力の高い人、知的に豊かな人からは対等に相手にされない。だから、自分の能力を越えたチャンスが人から伝わってこない。だから、一生人生が変わらない。

 

コミュニケーション能力が高い人は、どう?に答えられない人に対して、もっと答えやすいように質問の仕方を変えることができる。答えを促すように工夫してくれるんだよ。だからコミュ力がない人も話しやすくしてもらえるんだけどね。

でもこうやって気遣いをされてしまった段階で、その場はもうチャンスが生まれる場ではなくなる。序列が出来てしまう。

 

コミュニケーション能力でサバイバルしていこうと思ったら、どう?と質問された瞬間はチャンスだと思ったほうがいいよ。

フリーでなんでも言えよって状況なんだから。

 

「どう?って?」って答えた瞬間、自分にはチャンスはもうなくなる。

 

愛される女、愛されない男

何度も何度も言うんですが、「女性性」というものを長年商売道具にしてきたので、いわゆる「オンナ」を数万人単位で見てきた。

多くは誰もが認める美女だった。一方で外見的に残念な人も少なくなかった。見てくれの美女は美味しい思いをしやすいのは確かだ。同条件の選択があったら、人は美女からの提案を飲むだろう。男であっても女であっても、人はみんな美人が好きだから。

 

でもね、夜の仕事って、たしかに女性は見てくれが美しいに越したことはない。でも見てくれの美しさで成功したり、もっと言えば幸せを心から実感できる人生になれるとは限らない。若さだけしかもってないデブでブスの子が、「アキラ、わたしほんと幸せになったよ」って言ってる笑顔を見た時、俺は本当にこの世界の真実が見えた気がした。

 

愛されるオンナってどんななんだろう。

 

実はそれってはっきりしてる。

「他人の夢や憧れに、自分のハートをリンクできるオンナ」だよ。

 

難しい言い方で申し訳ないけど。

分かりやすく言えばね、例えば、ある男がこう言うとするよ。

「君には興味ないかもしれないんだけど、俺、憧れてる先輩がいるんだよね」

それは仕事の先輩で、仕事が超絶出来て、自信に溢れ、ビジュアルも輝いていて、女性社員にモテて、男性社員からも一目置かれていて、顧客からも絶大な支持がある、とするよ。あんな男になりたいんだって、男が女性に言う。

 

愛されないオンナって、返事はこうだ。

「へえ、かっこいいね」

それが言えればまだマシで、ひどいと返事もない。それどころか「仕事の話は休みの日にしないで」とか言うかもしれない。

 

逆に愛されるオンナはこんなだったりする。

「その人のブログとかないの?どんな人なの?どんな仕事の仕方をしてるの?」

 

どういうことかっていうとね、その男にとって、その仕事が人生でどんな優先順位だったり熱を持っているのかオンナが理解できているかなんだよ。

別に仕事の愚痴を言うわけじゃない。夢や憧れの話をしてるんだ。

もしかしたら男は毎日必死にもがいて仕事をしているかもしれない。能力的にも環境的にも恵まれないけど必死に結果を出そうと仕事をしているかもしれない。その毎日の先に叶えようとしている目標や理想があるのかもしれない。そんな男の理想を体現している先輩がいる。

そこに興味を持てるかどうかって、その男自身への興味と同じことなんだよな。

 

男がミュージカルが好き、だからわたしもミュージカルが好きになった、みたいなものなら、誰でもできる。子供でもできる。

 

そうではなく、自分には本当は違う世界のことに興味を持てるかって、ちょっとレベルが違う感性なんだよ。

人は、男女関係なく、仕事のあり方にその人の人生の問題とかコンプレックスが現れるもんだ。例えば俺なら、テーマは金だったり、人との関わり、だったりする。俺の育ちとか生きてきた環境が影響した結果で、今追い求めているものがあるわけ。

貧乏な育ちで、親にさえ死ねと言われる育ちをしている俺が、さらに大人になるまで味わった惨めさや憧れを積み重ねて、45歳の俺の毎日の行動がある。

それはいくら恋人だろうと夫婦だろうと本来関係ないし興味もないはずなんだよな。

でも、そこに対してもっと知りたいって素直に思えるっていうのは、相手への興味の強さそのものだよ。

 

愛される男、愛される女って、ここの共感力みたいな感受性がとんがってる。

パフォーマンスではなく、腹の底から興味を持って相手に接しているのが分かる。

「あなたの人生に興味がある、あなたの思考に興味がある」っていう顔をして、興味津々で体中の細胞全てで言葉を聴こうとする人間が、他人に愛されないわけがない。

矢印がびんびんに相手に向きっぱなしなんだよ。

 

18歳でもそれができる女がいる。

40歳になってもできない男もいる。

25歳までできなかったけど、26歳から突然できるようになることも極まれにある。

 

そうなれば、女の見てくれなんかどうでもよくなる。80キロのデブでも深く深く愛される。おまえがいなきゃ無理だって、俺の夢とか目標にお前のことも入ってるよ、って言われるって。

 

わたしが興味あることにしか興味もてない。

それはガキが言うことなんだよ。

小学生じゃあるまいし。

 

 

 

三流以下の男ってこんな感じ

話せば話すほど気分が悪くなる男だなと心底思った。

話したあとに、本当に胸糞が悪くなる。三流の男っていうのはこうなんだなと痛感した。そして、三流以下の人間が集まる場所っていうのは、とことん腐った場所なんだとも思った。

 

仕事で出会った45歳の某会社の営業マンと話をする機会があったんだが、残念すぎて文字通り吐き気すらしたんだよね。

その男はこんな感じだった。

口を開けば会社の愚痴と批判、同僚の悪口ばかり。Twitterに蛆虫のように湧くガキじゃあるまいし、誰がむかつく、会社のやり方は間違ってる、管理職はみんな入れ替えたほうがいい、そればっかりなわけ。

 

「じゃあ辞めたら良いじゃないですか。仕事なんて沢山ありますよ?」俺は我慢して言った。

「いやあ、それでも頑張るつもりだけどね、オレは」とそいつは言う。

じゃあ言うなよって話だけどさ。典型的なサラリーマンなんだろうね。俺には全くない感覚をお持ちのようで。

魅力が全くない営業マンだった。45歳だと聞いて、さらにびっくりした。実年齢より老けて見える。髪はボサボサでだらしなく、スーツもどこかの量販店で買ったものらしくて全体的にみすぼらしい。きっと29800円みたいなもんだろう。センスのないネクタイも小紋柄の刺繍の糸が解れて毛が飛び出している。顔の肌も乾燥してところどころ赤くなり、目も充血している。

緊張感がなく、他人に人生を依存して生きている男の典型的な見た目だ。東北新幹線に乗るとこういう外見をしたサラリーマンがたくさんいるよ。会社の金で移動しているくせに、席でビールと安いツマミを喰らう乞食サラリーマンな。

 

俺に対して、俺の仕事のことを色々質問してくるので、あー嫌だなーって思った。だから俺は全部てきとーな嘘を教えてやった。そもそもさ、他人の仕事について質問したいならそれなりの礼儀がある。

教えてもらうってタダだと思ってんだよ。言っとくけど情報はタダじゃない。タダで教えてもらえるのは、俺の女だけだね。俺が寵愛する女だけ。当たり前だ。

いい年したおっさんが俺にズケズケ聞いてきても、俺は嘘しか言わないし、それにどうせ聞いてもそれを活かすこともしない。ただのカスだろ。

参考になりましたくらいのことを言うのもこういうカスリーマンだ。嘘でも押し付けとけば十分。その通りのことを仮にやったら必ず業界人として死ぬ。そういう情報を提供しといた。

 

でもさ、あんまりにも三流すぎて逆に興味すら湧いてしまって。こいつに質問してみた。こいつの胸糞悪さの源泉はなんなんだろうと思ってさ。

 

「○○さん、あなたは何のために仕事してるんですか?」俺が質問した。

答えは即答だった。

「金ですね。オレ、プロですから。」

 

はあ・・・プロ。しかも、金、ですか。

 

たしかにね、プロとは報酬でしか評価されない存在だから、報酬額に徹底的に拘るのが当たり前だよ。俺もそう。報酬額にとことんこだわって仕事している。

でもな、少なくとも俺はこいつとは違う。だからもう少し訊いてみた。

 

「その金を何に使うんですか?」と俺。

「物欲と老後資金っすね」と三流リーマン。

 

もういいわと思った(笑)すげえな。こいつその年になるまでどうやって生きてきたんだ。あまりにも安っぽい。こいつの本質が、物欲と老後資金とはな。いやあ、すげえわ。

18歳の時から、ときどきこういう三流以下の人間を見る。夜の世界には文字通り蛆虫がたくさん湧くんで、三流どころか死んだほうが良いような人間のクズが沢山いるんだが、こういうサラリーマンはまたそれとは違うクズさだよ。

 

俺が教えてやるよ。

俺がいままで沢山見てきた超一流と呼ばれる本物のプロ達は、全員、評価としての報酬を目指しているが、「なぜその仕事をするのか」という本質の部分もはっきりと共通している。

それは「他者への貢献」とか「社会的な意義」とか「○○を変えたい」っていう、使命感がはっきりとあるんだよね。

金を稼ぐ、それはビジネスの基本だし、徹底的に追い込んでいかなきゃならない実務だよ。それはそれでハードな戦いだ。金を稼ぐことから逃げる人間はプロにはなれない。

でもそれの根本にあるのは、使命感の部分。使命感がない人間がいくら金を稼ごうとしても、結果は難しい。

なぜなら、吐くほど疲れてもういい加減寝ていたいって思うときでも、またネクタイを締めたり作業服に着替えて出かけていくのは、自分には使命があると思えるからだよな。自分の金だけを目標にしてると、疲れたときに簡単に休むようになる。

人は、不自然な努力を重ねて成功を目指すより、貧乏に慣れたほうが楽な生き物だからだよ。

 

それに、使命感なく金の目標を達成したとしたら、そこで簡単に休んでしまいさらにその先に行こうとしなくなる。

親が常識的な収入のサラリーマンっていう普通の家で育ってるなら、金にたいしても欲望は必ず上限がある。だってそうだろ?来年あたり二億円のブガッティ・ヴェイロンを欲しいと本気で思える人間じゃないだろ?だとしたら、金を目標にしたら、かなり低いところで行動が止まってしまうはずだ。俺もそうだ。貧乏な育ちの俺が金を目標にしたら、せいぜい月収50万円くらいで満足してしまっただろうな。

 

そうじゃなく、もっともっと仕事しなければと毎日思えるのは、使命感の部分だと思うよ。

 

青臭い使命感の部分を馬鹿みたいにたくさんの人に話すことで、そのひたむきさに支援者が増えていく。その仕事ぶりに本当に感謝するひとが増えていく。だからビジネスが自分の想定を越えて運命的に回転していく。当然、マネーの部分でも目標を達成できるようになる。マネーが自分の力で稼げたものではないと心から思えるようになる。

そして文字通り、幸せに成功するようになる。その幸せは、サラリーマンの幸せとは全く異質のもんだけどね。24時間幸せに仕事に没頭できるっていう意味だよ。幸せに朝5時から仕事を始められるっていう意味だよ。矛盾するみたいだけど、仕事に没頭しながらも家族や恋人との時間も自由に持てるのも幸せな成功のあり方であって。

 

金と、使命感っていう2つのものが同時に高速回転する人間は、必ずオーラがある。いやでも垂れ流してるよ。

俺の師匠も、先輩たちも、みんなそういう人間だった。俺もそうありたいと思ってる。エロの世界ですら、プロっていうのは使命感に突き動かされるやつらだった。

もちろん、このブログだって、誰かの人生にわずかでもいい影響が与えられたら良いと思って2007年から書いてる。誰かの救いでもあろうと思ってる。もちろんプロの世界の使命感だから、ゆとりのガキどものような甘っちょろい意味ではないけどね。

 

物欲と老後資金とか言ってる三流の男には、俺は人生をかけてまで支援したいとは思えない。対等に話をしたいとも思えないし、時間を一秒でも費やすのはお断りします。

 

三流は結局三流のままなんだろうね。

 

The Journey To The Heaviside Layer

明日で東北の震災から6年になります。

大切なご家族や友人を亡くされた方も多いと思います。俺を含めて、俺の周りでも身近な人を亡くしている人がとても多くいます。

明日は、無念にも志半ばでこの世での人生から旅立っていった人たちの人生そのものに、心を寄せる祈りの日でありたいと思っています。

 

震災の当時のブログを読み返すことはないが、あの頃、マスコミが垂れ流す美談の数々に激しく苛立っていたのを覚えている。まるで安物のドラマのように、安っぽい感傷を強調しては感動物語を作り出そうとしていた。

覚えているのはテレビ番組で、安っぽい音楽とともに、”救えなかったあの人がいる・・・”なんていうテロップが流れていた。お涙頂戴の感動ストーリーがそんなに欲しいのかと。

または、父親が行方不明になっている幼児が急に立ち上がって、”これからオレがみんなをまもる!”と言ったとか。

レイプや略奪などの混乱はなかったとか、ね。あったけど。

最近も何も変わってない。6年間、行方不明になったままの子供を探して海の砂を発掘作業のように濾して骨を探そうとする父親の話を報道していた。悲しみに打ちひしがれ戦う父親の姿の姿を淡々と報道するのかと思ったら、変な作家まで出てきて人間の美しい姿だと感傷的に持ち上げる有様。

震災から6年過ぎても、寒気を通り越して恐怖すら感じる。このマスコミのあり方に。

 

それの何がダメなの?って俺もよく言われる。そういうの好きな人がいるんだからいいじゃん、って。感動物語だろうと悲しんでる人に共感するのはいいことでしょ?って。ダメなの?って。

 

ダメなんだよ。俺は騙されない。俺は嘘を素直に飲み込んだりしない。俺は世間のイージーな誤魔化しに迎合などしない。

真実はそこにはない。そういう形では存在しない。悲しみも苦しみも、マスコミのフィルターを通すだけで歪む。それに無自覚なままでは、いつかマスコミに煽られ世間に流され、集団ヒステリーに陥るだけだ。

 

俺の身の回りでは昔から死んでいった人間が多い。普通の45歳ではあり得ない死人の数だと思う。病気、事故、自殺。いろいろ死に様はあった。目の前で心臓の鼓動が打つのを止め、何かが抜けるようにゆっくりと人生から去っていく姿を、何人も見た。壮絶に苦しむ人、静かに逝く人、いろいろ。

死というものには何の意味もないが、それをどう理解しようとするかっていうのが、残された人の生きざまなんだよな。そう思えるくらいに、リアルに沢山の死と向き合ってきたと思う。

 

マスコミの垂れ流すお涙頂戴のメロドラマ性は、きっと死を知らない人たちの感傷のせいだと思う。

そして死を知らない人は、きっと生きるということがどんなことなのかも考えたことがないだろう。

 

もし、何のお別れも言えずに大切な人が去っていった時。きっと俺やあなたは激しく混乱するだろう。恋愛ですら突然別れてしまうと混乱する。その数十倍の規模でコンフュージョンする。

その時、その死という現実を受け入れるのにどのくらいの時間がかかるだろうか。そもそも受け入れるということがどんなことか分かるだろうか。

きっと、何年も何年も受け入れることができないかもしれない。津波のときのように、家族が死んだことを受け入れられず、でも骨を探し続けることが自分の使命だとすり替わってしまう人もいる。

亡くなったのは分かっているけど、いつまでも失踪届を出したままの人もいるだろう。葬式をやらないままの人もいるだろう。

そういう感情ってきっと誰でもある。その人にしか分からない感情があるよ。

 

でも、まともな人ならやがて気づいていく。どんなに自分の思い出が理不尽に奪われようとも、それを静かに受け入れていくときがやってくる。

自分の思い出を大切にしたいと思うのなら、そして自分の家族や友人を愛しているというのなら、自分の「納得」や「感傷」よりも、あの人が間違いなく生きていたということに思いを馳せてあげることが、尊厳というものじゃないのかなって、気づいていく。

骨をいくら探しても、それはいつか自分の生きがいにすり替わる。

死を認めなくても、それはいつか自分の意地にすり替わる。

そうじゃなくて、静かに思い出と向き合って、あの人の、あの子の人生がたしかに存在したんだと強く認めてあげることが、「受け入れる」ってことだと俺は思うんだよね。

 

仏教だとしたら、葬式という儀式は、去っていったその人の人生に思いを馳せて認めるという尊厳の意味があると思う。それによっって「成仏」というファンタジーを遺族が与えられ、心を落ち着けていくことができる。

キリスト教だとしたら、魂が天に召されたあとは、人の身体は入れ物でしかなくなる。入れ物にこだわるのではなく魂を認めてあげることが、その人が確かに存在していたという尊厳を守るということになるだろう。

 

そこに気づいていくのは人それぞれ時間差がある。何年もかかる人がいるのは当たり前。何十年、もしかしたらそのまま人生を終えてしまう人だっている。

それはものすごく不幸だと思うんだよね。

大切な人がいなくなったことを受け入れることができれば、恋愛だって元の彼氏や彼女の幸せを願うことができるようになるだろ?それと同じで、受け入れられなきゃ、自分も亡くなった人も、不幸なままだ。もっと厳しく言えば、受け入れることができなければ、亡くなった人の尊厳を踏みにじるのと同じことだとすら思う。

 

その受け入れられていないコンフュージョンの状態を、面白おかしくお涙頂戴物語にするマスコミはキチガイかよと思う。

すくなくとも、混乱が何年も続くのであれば、それはPTSDすら心配してあげるべきであって。それをエサにして感動物語を仕立てるのは、人間としてあってはならないゲスな行為だよ。

絶対に、混乱が続く姿をテレビで流しちゃいけない。感動物語にしてはいけない。混乱の中、おかしいことになりながらもがいている姿は、客観的に取材すべきで。美しい姿だなんて誰かの主観を押し付けるべきじゃない。

 

思考停止してマスコミの安っぽい感動物語を見ているのではなく

死んでいった人たちにそれぞれかけがえのない人生があったことに、思いを寄せてあげること。

まだ受け入れることができずもがき続ける人の戦いを、お涙頂戴を抜きにして静かに見守ってあげること。PTSDのような病的であれば救いの手を差し伸べてあげること。絶対に感動物語のエサにしないこと。

 

自分にとってかけがえのない存在だったその人を、静かに認めてあげる行為は、自分にしかできないことだよ。

 

命日っていうのはそういう日であるはずだよね。Heaviside Layerに旅立っていった人に永遠の命を与えるのは、残された人の思いを馳せる力だと俺は思ってるよ。