成長をやめざるをえないとき

その昔、不倫をしていた。

 

ラブレスキューで完結させないままの話があるけど、あの不倫とはまた別に。

 

30代の初めに、2歳年下の人妻だった。当時の俺の仕事を手伝ってくれていた女性。30代初めの女性らしく、落ち着いていて、でも色気のある背の高い人。ストレートの長い髪の美しさに惚れ惚れしていた。少し陰があるような色っぽい目つきに、俺は一目惚れした。

美しい見た目以上に、彼女は頭のいい女だったよ。脳の交通整理がいつもなされてる感じで、仕事の話をしても的確に意見が言える。考えていることの質も深さも幅も、文句なかった。

打ち合わせをするといつもバッグから出すベージュのヌメ革の手帳を覚えてる。小さな手帳は、使い込まれて深い色に経年変化していた。スケジュールには、5色のペンで色分けして丁寧に書き込まれていた。

 

その頃すでに女性経験はそこそこ多く、派手な女もエロい女も沢山見てきたつもりだった。でも彼女のように、知的で、美しく、才女という言葉がぴったりの女性は見たことがなかった。

残念なことに、彼女は人妻だったけど。あまり多くを語ろうとしなかったけど旦那がいて、小さな娘も1人いた。

 

それでも不倫関係になるのはそんな難しいことはなかった。ある日思いつきで、仕事抜きでランチに誘ったんだ。純粋に人としてもっと知りたいと思っただけなんだけどね。その午後、セックスすることになった。保育所の迎えの時間まで、ラブホテルにいた。

 

浮気するのは初めてじゃないと彼女は言った。セックスがものすごくリズムカルで上手かった。普通の主婦なら考えられないほどのレベルのセックスだったよ。プロとしてセックスしてる俺が思ったんだから間違いない。

彼女は、当時茶色かった俺の髪の毛を指で撫でながら、仕事してると分からないけど、あなたの本質はものすごく悪いことしてきた男だねと嫌味のような、でも笑顔で言った。その笑顔も仕事の時には見ることがない、無邪気そのものだった。

32歳とはいっても、所詮まだ32歳。まだまだ子供だった。言葉にそれ以上の意味はなかった。

 

俺は思ったよ。こんな素敵な妻がいる旦那ってどんな男なんだろうと。

「喉乾いたでしょ?」と言いながら、彼女は俺に冷えたコーラを手渡す。コーラが喉を掻き乱しながら落ちていくのを感じながら、シャワーを浴びる音を聞いていた。

 

きっと、さぞかしいい男なんだろう。俺より年上だし、きっと優秀な学歴がある会社員で、収入も安定していて、貯金もあって、知的で、優しいんだろう。おまけに学生時代はラグビーとかしてたんじゃないか。って、そんなのは全部俺の妄想なんだけどね。

俺は彼女からただ「会社員してる」としか聞いてなかったから。

俺はその頃、仕事が上手くいかず、多額の借金を抱えていた。普通でありきたりな同世代の会社員ができることを、俺は何もできなかった。その金もなく、時間もなかった。旦那のイメージは、俺のコンプレックスが形になったものでしかなかった。

 

彼女とはその後も仕事で週に3回会い、仕事がない日は日中に会ってセックスした。品のいいスカートの上からケツを触るとき、高級そうなブラのフックを外すとき、これだけ沢山の女を知ってる俺でもドキドキした。

彼女と夜会うことはほとんどなかった。当時使っていたauガラケーでメールしていたけれど、保育所の迎えがある17時以降は、俺から連絡はしないことにしていた。

普通の恋愛関係と違って、そういう会っている時と連絡取らないときの落差が、セクシャルに興奮する要素の一つだった気がする。

 

俺は彼女のように生きたいとすら思った。少なくとも、彼女のような努力で成長してきた、人間的にも優れた才女に選ばれる男でいたいと思っていた。

 

ある日、ちょっとした出来事があった。

いつものようにラブホテルに行ったとき、彼女の腕に大きな痣があるのを見つけた。

「なに?これ」俺は特に深く考えず訊いた。

すると彼女は「うん・・・」とごまかすような顔。

もしかして旦那か、と思った。DVか。でも、俺もそこまで幼稚な男じゃない。夫婦間の問題なんて色々あるもんだろ。叩く叩かれるなんてめずらしくはないし、たかが浮気相手の俺が正義感ぶったりするほど、素人のガキじゃない。俺はそれ以上に質問しなかった。なにも言わないのに、正義ぶって色々言わせ、結局はたかが浮気相手で何をすることも許されないっていう間抜けな姿を晒すことは避けたい。

 

その日はそれで終わったが、付き合いが長くなるにつれて、彼女の家庭の様子が見えてくるようになった。

日頃の才気あふれる印象とは程遠く、実は旦那は底辺層の男だと言うことが分かった。低い学力、人間的に未熟な性格、低所得、車高を下げたトヨタの高級車に乗って、その改造費のローンも自動車税も滞納し、臆病なのをせいぜい強がっていかつい見た目を装う、そういう田舎によくいる男だった。とてもじゃないが、30代半ばの男の姿じゃない。常識のない生活態度を注意すれば必死になって言い返し、相手を黙らせて勝ち誇る、そういう低能な田舎男。

 

田舎に住んでいて若い頃に結婚したのは知っていた。それに、どんな夫婦でも他人が意見を挟むことは許されないと思ってる。どんな旦那でも、どんな妻でも、お互いにしか知らないいいところも好きなところもあるはずだしね。

 

悲しいなと思ったのは、20歳頃には釣り合いが取れていたお似合いの2人も、どちらかが急激に成長してしまえば、そのアンバランスが必ずお互いの脚を引っ張るってこと。

人間的にもビジネス的にも女としても、もっと成長し、もっと高みに昇れるはずの妻は、田舎者の低能な夫に常に脚を引っ張られる。逆に夫としても、妻が年をとるごとに小難しいことを言うようになったと嘆いているだろう。きっと、素直に家で専業主婦して毎日飯を炊いて馬鹿なバラエティ番組を見て笑い合える妻がいいはずだよな。車のパーツ雑誌を一緒に見て、次はこんな改造したいとか言い合える妻がいいだろう。

その昔はお互い居心地がよくて一緒にいたはずなのにね。

 

そう思うのも、俺がその夫婦の外にいるからであってさ。次第にDVがエスカレートしているようだったけど、彼女からは何も相談はなかった。必ず顔以外のどこかに痣がついていた。それでも俺からは何も言わずに通した。

俺には関係がない、関係があるという感覚も持つのは違う、これは不倫であって普通の恋愛とは違う。何度もそう考えた。

 

ただ、もったいな・・・と思うだけ。もっと成長できるのにねって。

夫の立場になっても少し気の毒だった。夫のようなタイプは浮気なんかは絶対しない。相手も見つけられないしね。妻が浮気してるのを知ったら、気が狂ってしまう。そういう意味ではいい男なんだと思う。もっと妻が自分の世界に留まっていてくれたらと、思ってると思う。

 

俺の想像は遠くは外れてないはずだった。「アキラの世界」に深入りしすぎて、夫とのすれ違いが激しくなり、喧嘩に絶えなくなってるんだろう。

筋としては、俺の世界から彼女を締め出してあげるほうが賢明だよね。そう思って、距離を置こうと思ったその頃、彼女から別れたいと言われた。

 

正直、ほっとした。

「それがいいよ。」俺が言う。

「アキラに言えなかったことたくさんあるよ」と彼女も言った。

「分かってるよ。でももう知りたいとは思わない」

 

彼女はその後も俺と仕事をしていたけど、結局家庭の事情で仕事を辞めた。

数年後に彼女を見た時は、地元のドラッグストアのアルバイト店員だった。彼女にとっては不本意だけど、それでいいんだと思った。成長するかどうかは自分の価値観だし、それは自分で決めること。離婚するしないじゃなく、まずは夫も一緒に成長できるように努力すること、それができないときは、成長する環境か離婚かを選ぶこと。それを決めるのは全て自分自身であって。

事務服のようなダサい制服を着てレジを打つ彼女を見て、俺は不幸だなと思ったけど、彼女としてはどうか分からない。

 

まるで10歳の子供の服がすぐに小さくなって着られなくなるように。

本当は大きな服が必要でも、我慢して小さく服を着続けていくような不幸ってあるんだなと思った。

あれから10年以上が過ぎたけど、彼女がどうなったかは知らない。

ちょっと気の利いた主婦くらいのものだろうと思う。

 

俺は俺であの頃からずっと遠くに来た。今初めて出会っても、彼女と不倫することは絶対ない。住む世界も環境もお互い求める能力も、もう違いすぎるわけで。