アスファルトの上の小石を踏む ①

リュウは、さほど豊かではない家庭で生まれた。物心つく頃には父親は家族を捨てて出ていってしまい、弟と2人、母のパート収入とサラ金からの借金で育った。

やっとの思いで地元の公立高校を卒業すると、すぐに就職した。母親を楽にしてあげたいのと、弟の学費も稼ぎたいのとで、給料がいいけど仕事がきつすぎて在職率が著しく低いブラック企業に就職した。営業マンだった。

実家から職場まで自転車で45分かけて通った。車の免許を取る金がなかったからだ。定時は朝8時始業だったが、リュウは6時半に出勤し、夜の11時まで働いた。長く働けば残業代がもらえるのと、9時以降まで仕事する人間には夕食が出る慣習があったからだ。夕食代を浮かせるためにもとにかくずっと仕事をしていた。

8時半に朝礼が終わるとすぐに営業に出かけ、毎日必ず契約書を持ち帰ってきた。夕方に会社に戻ると毎日9時まで見込み客に電話をかけてアポ取りをし、そこから資料を作ったり、在庫を整理したり。昼メシは抜いていた。母親は毎日疲れ切っていて、弁当を作ってもらうのは気が引けたから。

 

学生時代も家に金がないので部活も入れなかった。学校にきちんと届けを出して放課後はアルバイトをした。近所の持ち帰りの揚げ物屋だった。いくつかアルバイトを変えたが、全部食べ物屋だったのは、たいてい残り物を持たせてくれたからだった。なるべくカロリーの高いもの、なるべくおかずになるもの。

 

就職してからの根を詰めた働き方のお陰で、一年もするとリュウのことは社長の目に留まるようになった。まだ19歳の貧乏な育ちのリュウが、休みもなくひたすら働き続けていることに興味を持ったのは当たり前の流れだった。

社長は、バブル時代に某運送会社で働いて貯めた金で今の会社を創業した志の高い男だった。激しく長時間働く人間を高く評価する一方、労働者の権利とか雇われ根性のようなものを振りかざす人間を「コジキ」と呼んで毛嫌いした。だからまともな社員は群れて悪口を言い合った。

ある時、社長に不満を持つ社員たちが集まって、独立しようという話になったことがあった。よくある話だ。自分たちにとって理想の会社を作ろう、と。19歳だったリュウにも一緒に会社を移らないかと誘いがあった。しかし、リュウは断った。断るとリュウは同僚に嫌がらせをされ、持ってきた契約書をわざと処理してもらえなかったり、在庫が急になくなったりして、客から苦情を受けることがいくつかあった。

それを社長に相談すると、すでにその独立話は社長も知るところで、「3日我慢して会社の中で待機しろ」と言われた。その2日後、独立を目論んでいた社員たちは、背任行為が見つかり会社から告訴されるかもしれないということになった。所詮会社員の群れだ。自分は独立をしようとしていていない、背任行為はない、あのグループとは関係ないと主張しはじめる人間が次々現れ、独立の話はなくなった。

 

関わった人間たちは全員降格させられ、代わりにリュウが昇格することになった。通常の昇進よりも8年早かった。社長がリュウを特に気に入っていたからだ。

かつて上司で、リュウに嫌がらせをしていた人間が部下となった。元上司たちはリュウに露骨に反発していたが、リュウは自分がそうであるように、全員が毎日契約書を持ち帰ることを当然と思っていた。1ヶ月も契約がない人間には、それが元上司であろうと19歳のリュウはしつこく詰めた。営業の世界で言う、いわゆる「激詰め」というやつだった。リュウにとっては個人的な恨みは全く無い。ただ、仕事として結果を出さないまま普通にいられるのが信じられなかっただけだ。

そんなリュウのことを、「社長に取り入るおべっか使い」と陰で言う人間が多かった。「あのガキが」と。

しかし、1人、また1人と会社を去っていき、1年過ぎる頃には独立話に関わった全員がいなくなった。

 

20歳を過ぎ、リュウは仕事のペースを全く緩めなかった。早朝から深夜まで働くスタイルを貫き、それを真似する後輩が数名でき、業績はどんどん上がっていった。給料も多くはないがそれなりに増え、母親もパートを一つ辞めることができた。随分と顔色も良くなったことがほんとに嬉しかった。

 

弟が無事高校を卒業する頃、リュウは生まれて初めて女性との出会いがあった。同じ年で、実家が農家だといった。友達の紹介だった。20歳だが就職はしたことがなく、コンビニでアルバイトをしていた。あまり豊かでない家の生まれというところが、リュウにとって親近感が持てた。

仕事に打ち込むリュウだったが、彼女とのデートの約束は工夫して確保していた。土日も休んでいなかったリュウにとって、1日デートに費やすと、その一週間前から睡眠時間を毎日2時間削ることにもなった。それでも、リュウは彼女を大切にしようと思ったんだ。

 

付き合って一年過ぎた21歳の時、彼女に子供が出来た。リュウはびっくりしたが、結婚したいと思うようになった。しかし、彼女を会わせた母親は、はっきりと反対した。「まだ早い」口には出さなかったが、彼女のことも少し気に入らない雰囲気があった。

また、社長にも結婚する旨を報告したら、社長の顔色が曇った。「一度、俺にも会わせてくれ」と言われたので、社長と3人で食事をした。しかし、母親と同じように、社長も怪訝な顔をした。

リュウ、お前今からでも引き返せるんだぞ。世間から悪い人間と言われても俺はお前の評価は変えないから、一回冷静になれ」とまで言った。

 

そこまで言う意味が分からなかった。母親も社長も、きっと古い人間なんだ。彼女は少しのんびりしてるところはあるけど、性格も悪くないし、子供もできたんだから結婚するよと思った。

予定通り、その翌月には結婚した。

 

結婚したからには、とリュウはさらに仕事に打ち込むようになった。昇給と昇進を目指して、今の業績を倍にしようと毎日努力した。自分の家庭と、母親を支えるためにも、金が必要だった。

しかし、ちょっと気がかりだったのは、妻がコンビニのバイトを辞めてしまったこと。妊娠しているとはいえ、まだ仕事はできるはず。なのに、専業主婦となってしまった。

リュウは疑問を飲みこんで、自分が働けばいいんだと思うようにした。

 

リュウの仕事は順調だった。子供が生まれたあとも、昇進を2回し、26歳になる頃には会社で最年少の管理職となった。職場では後輩から尊敬され、事務スタッフや役員たちからも一目置かれる存在になっていた。

「あいつはいずれ社長になる。それも30代のうちに」と誰もが噂していた。

 

リュウは自分の会社の中での活躍ぶりには自信を持っていた。貧しい出自、18歳から仕事だけに集中して量をこなしてきた自分、仕事以外のものを犠牲にしたきた自負。自分のしてきたことに自信を持ってきたし、その自信がさらに好業績を呼び込んでると思っていた。社長になりたいとか出世欲はなかったが、周囲が評価してくれるのが嬉しかった。

そんな27歳のある日、もうすぐ入社10年になるというときに、業界でも噂になるほどの巨大な取引に成功した。会社の中のライバルでさえ、嫉妬するようなレベルを越えて驚愕するような。社長ですら想定を越えた業績に笑うしかなかったほどの。

 

社長はリュウを呼び出して言った。「次の人事異動では、支社長を任せるから準備しておけ」

27歳で支社長というのは、業界でもありえないことだった。普通は若くても50歳のポストだった。ここはそんな田舎の零細企業ではないし、人材が不足してる斜陽産業ではないんだ。リュウはれっきとしたエリートで、学歴のない人間の成り上がりだった。

 

リュウはにやついた顔を抑えながら、自宅のアパートに帰った。夜11時。妻はもう風呂に入ってパジャマに着替えていた。

夫のために夕食を準備しているのを、リビングから眺めていた。21歳で結婚してから6年。妻はすっかり中年太りのように丸くなってしまった。リビングからみていると、まるでおばさんだと思った。

 

リュウは妻に仕事の話をしたことがなかった。社長から、妻には何も言うなと言われていたからだ。でもその日、妻に昇進の話を自慢したくなった。

「俺、支社長になるんだよ。」

そして、食事の準備をする背中に向かって、最近の業績とか、どんなに頑張ってきたかを堰が切れるように話した。

「なあ?すごいだろ?俺」リュウは自慢した。

 

夕食の麻婆豆腐をテーブルに起きながら、妻は言った。

「そんなこと言われても、分かんないから」

妻はリュウの目も見ずに言った。

「寝るから。食べたら下げておいて」

 

リュウは、1人でテレビを見ながら食事をした。テレビのニュースでは、アメリカの大統領選挙で初の黒人大統領が誕生したと告げていた。

食事を済ませ風呂に入り、またビールを飲みながら照明を落としたリビングでテレビを見た。

布団に入ると何故か眠れなかった。天井を1時間見上げながら、明日の仕事の段取りを考えようとしたが、何故だか何も考えられなくなった。なんとなく、心にササクレが出来ているような気がしながら、気づいたら眠りについていた。

 

そんな夜があってから、ほんの二週間ほど後で、リュウは女性に出会った。

 

同業のライバル他社の、営業職である25歳の女だった。背が高く、美しい顔立ち。ものすごく見栄えがする女だったので、リュウも1年前から存在は知ってはいた。

ここ最近、部下の商談で競合が出てくると、必ずこの女が担当だった。

 

ある日、同業者の集まりで、初めてその女と話をした。妻しか女性を知らないリュウにとって、そんな美しい女性を至近距離で見たのは初めてかもしれなかった。長いまつげ、整った二重の瞳、白い肌、黒髪、長い指、華奢な時計を巻いた細い手首、かと思うと女性らしく丸いパンツスーツのケツ。

女の名前は、ミユといった。

ミユは、リュウのことをよく知っていた。リュウは業界の有名人だったからだ。会社は違うけど、ぜひリュウの教えを貰いたいとミユは申し出た。

「時々お会いして、勉強させてください」と。

 

リュウはそれを快諾した。

「来週、食事しながらでもどうですか?美味しい店を知ってるんです。」

「ああ、いいですよ」

リュウは、妻以外と二人きりで食事する機会は全くなかった。これを見られたら浮気に勘違いされたりするのかなと少しは思ったが、別にそんなつもりもないしと思い直した。

 

しかし、このミユが、リュウの人生も人生観も大きく変えるきっかけになった。

 

【次回へ続く】

 

※実話です。