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アスファルトの上の小石を踏む ③

不倫がバレたきっかけはごく平凡だった。平凡ではあるけれど、リュウにとってそれは人類史上最悪の出来事に思えた。

 

リュウは携帯の中身を人に見られないようにするという習慣がなかったんだ。ミユと出会う前まで、人に隠し事をするなんてこともなかった。だから携帯電話に暗証番号を設定することもなく、誰でも見れる状態だった。しかも、リュウがまだフィーチャーフォンを持っていた時代だ。

眠りにつくときまでメールをしていたので、文章を打ちながら眠りに落ちてしまったんだろう。朝起きると、妻が激怒していた。

 

「だれ。ミユって」

妻が画面を見ていた。

「なに。好きって」

 

リュウは、喉の奥に苦いものが込み上げるような気がした。

「勝手に覗くなよ」

そう言って携帯電話を奪い、身支度をした。

「ちょっと」洗面所に妻が来る。「説明してよ」

「なんでもない。」

「なんでもなくないでしょ。その女、ここに呼んで」

「あほか、勉強会で一緒の人だ、変なこというな」

「じゃあなに、あのいやらしいメール」

 

いやらしいって。最近、確かにエロメールしかしてない。ミユが顔射が好きなんだ。ぶっかけられた精子をすくって口に全部入れてしまうようなのが興奮するんだ。だからそんなことをメールで言って笑いあった。

あとは、ミユとは中出しだった。ピルを飲んでいるから大丈夫だと思うけど、ミユはゴムちんぽは我慢がならないって言った。そういう話をメールでいつもしていた。

 

その朝は妻が怒鳴り散らすのを振り切って、いつもどおり朝6時すぎに家を出た。BMWの助手席にはミユが仕事の時に使うヘアピンが一つ落ちていた。そして長い髪の毛も。妻には見られていないが、最近はいつバレてもおかしくない状況だったんだろうなと思った。

 

いつものように仕事をしていると、ミユからメールがあった。

「奥さんからうちの会社に電話あって」

リュウは無言になった。

「ぎゃんぎゃん怒鳴ってた。これから奥さんに会うよ」ミユが言う。

「いや、辞めろ。会うな」リュウが言ったが、ミユは何も言わずに電話を切った。そういう電話の切り方は今までしたことがなかった。

 

ミユはリュウが留守にしている自宅に行ったらしい。そこには、「おとうさんありがとう」と娘が幼稚園で書いた似顔絵やら、妻の趣味で飾ったキッチンやら、あまりミユに見られたくないものが揃っていたんだが。

 

あとでミユが言うには、妻はミユに対して、「人のものを盗むって泥棒でしょ」と怒鳴り散らした。ミユは黙って聞いていた。「離婚するからそんな男くれてやる。でもあんたたちは訴えて慰謝料取るから」妻はそう言った。

まるで安っぽい携帯小説を読んでるような台詞だと思った。そしてミユが思ったのは、あのリュウの妻にしてはブスだなってこと。デブだし、ブス。

 だから言った。

リュウさんの奥さんとは思えないですね」

妻はさらに激高した。カウンターの上の固定電話をミユに投げつけたがミユが避けたので壁にぶつかって粉々に砕けた。ミユは逃げるように玄関に行き、靴を履いて外に飛び出した。

 

その後で、リュウは妻に電話した。妻は興奮が収まらず、ワケの分からないことを喚きいていた。何も話せず電話を切ると、しばらくして警察と病院から電話があった。余りにもの興奮に近所の人が通報したらしい。今は病院の精神科にいるという。そして、言われたのは、数ヶ月前からそこには通院していたということ。

娘にはリュウの母親の家に帰るように学校に連絡し、リュウは精神科に行ってみた。すると看護師が出てきて、今は会わないほうがいいと告げられた。隔離した病室に入れたということも。

 

ミユから電話があった。メールではなく。

「わたし、リュウと別れないから。別れるつもりないから」

リュウは何を言っていいのか分からなかったが、「俺もだよ」とだけ言った。

 

リュウは思った。妻に悪いことをしているようだけど、ようだけどというよりこれは悪いことなんだけど、もう妻とは居れないなと思った。今まで仕事に打ち込んで家庭を顧みなかったのが悪かったのかもしれない。娘もリュウには懐かず、いつも他人行儀で緊張しているようにさえ見えた。

 

妻が退院するとリュウは離婚の手続きをした。

まだ、ミユとは別れるつもりはなくて、ミユとはそのまま付き合っていくことにした。

会社で扶養家族の手続きを取ると、すぐに社長の耳に入った。社長に呼ばれ言われた。「だから言っただろう」と。

 

リュウはその後、1年も経たないうちに、ミユとも別れることになった。別れるというよりも自然消滅に近くて、半年連絡を取らないままでいるうちにいつの間にか元彼というポジションに落ち着いたのが分かった。

離婚してから数年たつが、今でもミユとは友達のままでいる。

 

リュウは、アキラに言う。

「あの日、あの昇進を社長から言われた日、初めて妻に仕事の自慢をした。あの時に、さすがうちのお父さんは違う!って嘘でもいいからお世辞を言ってくれたら、きっと今も離婚してなかったと思う」

 

アキラは言うよ。

後出しジャンケンの言い訳な」

 

リュウは言う。「ミユといる時は、自分に自信があった。いつも褒めてくれて、いつも頼ってくれた。でも妻は違った」

 

アキラ。「不倫する男はみんなそう言うんだよ。不倫は非日常なんだよ。だからミユという女は妻とは違うって幻を見たんだよ。」

 

リュウはそうじゃないと言いた気に黙って何処かに行く。

でも俺は分かってる。

夫や妻の、彼氏や彼女の、人生の「物語」に耳を傾けて共感するということが出来なければ、関係は簡単に崩壊するんだってこと。

リュウの物語の原点は、母親への想いだった。ガキの頃から、母親を助けようと尽くしてきた。結婚してからは妻と娘にひもじい思いをさせまいと働き続けてきた。自分は運転免許を取るのも遅く、車もBMWとは言ってもオイル漏れした中古車だ。母親を気遣って弁当も持たず、会社の残業弁当を食べて仕事をがんばってきて、いつも他人のために努力してきたんだ。

たった一つ、社長がリュウを認めてくれたっていうことを自慢したとき、妻はもっと共感して褒めてあげればよかったのに。そう、「さすがうちのお父さんだ、最高だね」って。

会社員をしていたら、そのポジションになるまで徹底的に苛め抜かれるのが当たり前なんだから。

ミユという女はそれが出来た。そういうことなんだ。非日常なセックスを相まって、いつの間にかミユに心を委ねるようになったんだろう。

 

もちろん妻が悪いなんて言うつもりはない。妻は浮気もせず、毎日欠かさず弁当を作り、家に帰れば食事も用意してくれた。それを毎日続けるっていうのは、不倫相手にはできないことだ。同じルーティンを毎日淡々とこなすっていう力は、フェラチオとは違う能力なんだから。

 

ただ、リュウと妻の間に、コミュニケーションがなかったのは確かだよね。若い二人で、リュウのように急激に成長していくパートナーを持っていると、コミュニケーションをしっかり取らないと、どちらかが置いてきぼりをくらう。

 

あの時、なぜ母親と社長が、その妻との結婚に反対したのか、リュウは未だに分からないと言う。でも俺には分かるよ。

苦労して戦ってきた人間には分かるんだ。

「主語」が自分なのか、他人なのか。自分で選択して人生を生きている人間も、他人の選択に依存して生きている人間も、たった5分話せばすぐに分かる。共感力のあり方が分かるんだよ。

 

もちろんそれは他人事だから分かるんだ。母親も社長もアキラも、自分ごとになれば共感力があるかどうかなんて判断つかなくなるもんだ。だから人生難しいんだ。恋愛って難しいんだ。

 

リュウは今も独身で仕事ばかりしてる。彼女もいない。家を建てて母親と住んでいる。

リュウの妻は、うつ病の治療をしながら、実家の農家に引きこもって暮らしているらしい。弟の夫婦に煙たがれ、きっと不幸だろう。

ミユは、今は仕事を辞め、結婚している。相手は職場の先輩だったらしい。不倫騒動の時に相談したのが職場の先輩。

 

「ほらな」アキラはリュウに言う。

「ミユは褒めてくれる、なんて言っても、しょせんは普通の女だろ。お前との不倫を相談した男のちんぽしゃぶってんだから(笑)」

 

人生って、ある時は近視で、ある時は遠視、ある時は乱視になるもんだ。

 

それでも大切なのは、あなたのパートナーの物語に耳を傾けること、なんだよ。

 

アスファルトの上の小石を革靴で踏んだときのような違和感さえ、気づいていこうとする人間関係を、きっと愛と呼ぶんだろうから。