The Journey To The Heaviside Layer

明日で東北の震災から6年になります。

大切なご家族や友人を亡くされた方も多いと思います。俺を含めて、俺の周りでも身近な人を亡くしている人がとても多くいます。

明日は、無念にも志半ばでこの世での人生から旅立っていった人たちの人生そのものに、心を寄せる祈りの日でありたいと思っています。

 

震災の当時のブログを読み返すことはないが、あの頃、マスコミが垂れ流す美談の数々に激しく苛立っていたのを覚えている。まるで安物のドラマのように、安っぽい感傷を強調しては感動物語を作り出そうとしていた。

覚えているのはテレビ番組で、安っぽい音楽とともに、”救えなかったあの人がいる・・・”なんていうテロップが流れていた。お涙頂戴の感動ストーリーがそんなに欲しいのかと。

または、父親が行方不明になっている幼児が急に立ち上がって、”これからオレがみんなをまもる!”と言ったとか。

レイプや略奪などの混乱はなかったとか、ね。あったけど。

最近も何も変わってない。6年間、行方不明になったままの子供を探して海の砂を発掘作業のように濾して骨を探そうとする父親の話を報道していた。悲しみに打ちひしがれ戦う父親の姿の姿を淡々と報道するのかと思ったら、変な作家まで出てきて人間の美しい姿だと感傷的に持ち上げる有様。

震災から6年過ぎても、寒気を通り越して恐怖すら感じる。このマスコミのあり方に。

 

それの何がダメなの?って俺もよく言われる。そういうの好きな人がいるんだからいいじゃん、って。感動物語だろうと悲しんでる人に共感するのはいいことでしょ?って。ダメなの?って。

 

ダメなんだよ。俺は騙されない。俺は嘘を素直に飲み込んだりしない。俺は世間のイージーな誤魔化しに迎合などしない。

真実はそこにはない。そういう形では存在しない。悲しみも苦しみも、マスコミのフィルターを通すだけで歪む。それに無自覚なままでは、いつかマスコミに煽られ世間に流され、集団ヒステリーに陥るだけだ。

 

俺の身の回りでは昔から死んでいった人間が多い。普通の45歳ではあり得ない死人の数だと思う。病気、事故、自殺。いろいろ死に様はあった。目の前で心臓の鼓動が打つのを止め、何かが抜けるようにゆっくりと人生から去っていく姿を、何人も見た。壮絶に苦しむ人、静かに逝く人、いろいろ。

死というものには何の意味もないが、それをどう理解しようとするかっていうのが、残された人の生きざまなんだよな。そう思えるくらいに、リアルに沢山の死と向き合ってきたと思う。

 

マスコミの垂れ流すお涙頂戴のメロドラマ性は、きっと死を知らない人たちの感傷のせいだと思う。

そして死を知らない人は、きっと生きるということがどんなことなのかも考えたことがないだろう。

 

もし、何のお別れも言えずに大切な人が去っていった時。きっと俺やあなたは激しく混乱するだろう。恋愛ですら突然別れてしまうと混乱する。その数十倍の規模でコンフュージョンする。

その時、その死という現実を受け入れるのにどのくらいの時間がかかるだろうか。そもそも受け入れるということがどんなことか分かるだろうか。

きっと、何年も何年も受け入れることができないかもしれない。津波のときのように、家族が死んだことを受け入れられず、でも骨を探し続けることが自分の使命だとすり替わってしまう人もいる。

亡くなったのは分かっているけど、いつまでも失踪届を出したままの人もいるだろう。葬式をやらないままの人もいるだろう。

そういう感情ってきっと誰でもある。その人にしか分からない感情があるよ。

 

でも、まともな人ならやがて気づいていく。どんなに自分の思い出が理不尽に奪われようとも、それを静かに受け入れていくときがやってくる。

自分の思い出を大切にしたいと思うのなら、そして自分の家族や友人を愛しているというのなら、自分の「納得」や「感傷」よりも、あの人が間違いなく生きていたということに思いを馳せてあげることが、尊厳というものじゃないのかなって、気づいていく。

骨をいくら探しても、それはいつか自分の生きがいにすり替わる。

死を認めなくても、それはいつか自分の意地にすり替わる。

そうじゃなくて、静かに思い出と向き合って、あの人の、あの子の人生がたしかに存在したんだと強く認めてあげることが、「受け入れる」ってことだと俺は思うんだよね。

 

仏教だとしたら、葬式という儀式は、去っていったその人の人生に思いを馳せて認めるという尊厳の意味があると思う。それによっって「成仏」というファンタジーを遺族が与えられ、心を落ち着けていくことができる。

キリスト教だとしたら、魂が天に召されたあとは、人の身体は入れ物でしかなくなる。入れ物にこだわるのではなく魂を認めてあげることが、その人が確かに存在していたという尊厳を守るということになるだろう。

 

そこに気づいていくのは人それぞれ時間差がある。何年もかかる人がいるのは当たり前。何十年、もしかしたらそのまま人生を終えてしまう人だっている。

それはものすごく不幸だと思うんだよね。

大切な人がいなくなったことを受け入れることができれば、恋愛だって元の彼氏や彼女の幸せを願うことができるようになるだろ?それと同じで、受け入れられなきゃ、自分も亡くなった人も、不幸なままだ。もっと厳しく言えば、受け入れることができなければ、亡くなった人の尊厳を踏みにじるのと同じことだとすら思う。

 

その受け入れられていないコンフュージョンの状態を、面白おかしくお涙頂戴物語にするマスコミはキチガイかよと思う。

すくなくとも、混乱が何年も続くのであれば、それはPTSDすら心配してあげるべきであって。それをエサにして感動物語を仕立てるのは、人間としてあってはならないゲスな行為だよ。

絶対に、混乱が続く姿をテレビで流しちゃいけない。感動物語にしてはいけない。混乱の中、おかしいことになりながらもがいている姿は、客観的に取材すべきで。美しい姿だなんて誰かの主観を押し付けるべきじゃない。

 

思考停止してマスコミの安っぽい感動物語を見ているのではなく

死んでいった人たちにそれぞれかけがえのない人生があったことに、思いを寄せてあげること。

まだ受け入れることができずもがき続ける人の戦いを、お涙頂戴を抜きにして静かに見守ってあげること。PTSDのような病的であれば救いの手を差し伸べてあげること。絶対に感動物語のエサにしないこと。

 

自分にとってかけがえのない存在だったその人を、静かに認めてあげる行為は、自分にしかできないことだよ。

 

命日っていうのはそういう日であるはずだよね。Heaviside Layerに旅立っていった人に永遠の命を与えるのは、残された人の思いを馳せる力だと俺は思ってるよ。