厚焼き玉子を食べながら言葉を紡いだ夜のこと

俺がまだ30歳そこそこだった頃、Yというスタッフの女がいた。

Yには実家と呼べるところがなかった。本当は母親という存在はいたけれど、17歳の時に家を出てから21歳のその時まで一度も連絡をしていないと言った。

Yは17歳の夏に高校を辞めて、その日のうちに家を出た。住む場所のあてもないまま東京をうろつき、そのうち偶然知り合った当時38歳だった男のボロいアパートに転がり込むようになった。

そして半年後、18歳でその男と結婚した。

男は発達障害で生活能力に乏しかったが、每日每日、小さな会社の事務員として仕事をしていた。Yは近所のコンビニで働くようになり、2人で細々と食っていくにはなんとなる収入を得るようになった。

每日ささやかな夕食をはさんで座り、食事後はテレビを見て、夫が10時に床に着くとYは深夜の仕事に出かけていった。東京の夜、駅前のコンビニまで歩いて行く道すがら、空気が冷たかった。夫からもらった男物のGAPのダウンジャケットを着て、マフラーに顔の半分を埋めてうつむいて歩いた。

店に着くとダウンジャケットを脱いで、朝まで必死に仕事をした。明け方に店の外が白けてきて、作業服姿の男達が缶コーヒーとサンドイッチを買い込む時間端になると、いつも思い出す言葉があった。

それがなぜ明け方に思い出すのかは分からない。

それは、母親の言葉だった。母親はこう言った。

「あなたは人と違う環境で育ったかもしれないけど、あなたには誰にも負けない価値があるの。どんな環境で生きていても、あなたには絶対価値があるの。それを信じるって約束して。いい?あなたには価値があるの。」

 

それを思い出すたび、Yは意識が一瞬遠くなる。そして気を取り直し、必ず小さく舌打ちする。

むかつく。あんだあの女は。そのいつもの言葉で、どれだけ自分の人生は絶望に突き落とされたか。どれだけ死にたくなったと思うのか。

 

母親がいつもそれを言う理由を、Yはなんとなく知っていった。でも言葉ではっきりとは言えなかった。

とても卑屈な何か、だったんだ。

Yが物心つくときには父親が存在しないことを知っていた。それが何故かを考えることはあったけど、すぐに辞めた。

自宅には母親を訪ねてやってくる男が何人かいた。母親は田舎町で小さなスナックを経営していた。深夜に家に帰ってきてすぐに寝て、昼前に寝床から起きると風呂に入って化粧を始めていた。疲れ果てた顔をした中年オンナは、化粧をすると別人のように派手になった。化粧が終わると、男がやってくる。母親より年上の中年男。腹が出ていて、若作りしたチェックのネルシャツを着ている。

幼かったYはリビングでテレビを見るように言われ、5分もすると奥の部屋から母親の色っぽい声が漏れてくる。いくいく、もっともっと、母親はそうやって喘いでいた。30分もすると何事もなかったかのようにリビングに現れた。男は頭に汗をかき、母親は髪が乱れ、口紅が取れていた。

「Yちゃん、元気か~」と男は言う。Yはその男の顔は覚えていない。顔を見ないようにしていたからだ。Yは返事もしない。すると男がちょっと怒るのが空気で分かった。無視していると、すぐに帰っていった。

母親は決して美人ではなかったが、きっと男なしでは生きられない情けない弱い女だったんだと思う。

每日のように違う男が家を訪ねてきた。それはきっと3人か4人はいつもいた。

Yはいつの頃からか、気づくようになった。自分の父親は、そのうちの誰かなんだって。でも、母親はそれが誰かなんて知らないんだろう。誰の子供を孕んだのかさえ分からず、誰の認知も受けてないのではないかと。

男はいつも誰かが抜け、誰かが新しく加わった。それでもいつも変わらないあの男、自分をYちゃんと呼ぶあのオヤジが自分の父親なんだろうと気づくようになった。認知されてないので想像に過ぎないわけだけど。

男と母親の逢瀬は、Yが家をでるときまで続いていた。

学校から早退して帰ってくると、玄関には男物の靴があった。それを見るとたとえ具合が悪くても、近所のマクドナルドで1時間ほど時間を潰すようにしていた。

Yはもう気付いていた。どいつもこいつも、妻子があるオヤジばかりなんだろうって。わたしの家はあいつらが排泄物をぶちまける公衆便所みたいなもんだねって。

 

そんな時に、まるで立派な母親のように言う。あなたには価値があるのよ、と。信じて、と。

あなたには価値があるのよ。

あなたには無条件で価値があるのよ。

あなたは世界で一番綺麗で可愛いの。

あなたは世界でただひとつの命なのよ。

あなたのことをわたしが世界で一番愛しているのよ。

あなたが生まれてきてくれて、お母さん幸せなのよ。

 

コンビニのレジから店の外が白んでくるのを見る時、なぜそんな母親の言葉を思い出すのかは分からない。

母親のその言葉でどれだけ絶望を味わったか。でもそれが何故かは分からないままだった。仕事が終わってまた歩いて家に帰って、シャワーを浴びてから仕事に行った後の夫の布団の中に潜り込むと、1分もしないうちに眠りに落ちてしまう。

価値がある、か・・・。

 

そんなささやかな居場所を作っていた結婚生活もある日終わりを遂げる。ある日、夫が家に帰ってこなかった。どうしたんだろうと心配しつつも仕事の時間になったので出かけようとすると警察からの電話が鳴った。

夫が自殺した、ということを知った。会社のビルのトイレで首を吊っていた。

 

Yがアキラのところに来たのは、その自殺から1年が過ぎた頃。

夜の商売にしては見た目に華がない。正直、美人ではない。

「わたし、ぶっさいくなんでごめんなさい」

Yはそう俺に言った。別に見た目なんかどうでもいいよ。Yはよく働く女で、決して頭がいいわけじゃないが与えられた仕事は素直に取り組んで、結果も出した。

Yには、俺はなにか引きつけられるものがある気がして、よく話をするようになった。結果も出していたし、わりと頻繁に食事に誘って俺んちの近所にある小さな居酒屋によく行った。

 

「アキラさん、質問があるんだ」とYが言う。

その時Yが言ったのは、あの母親の「あなたには価値がある」という言葉のことだった。

「それってどういう意味?」

俺にはよく知ってる状況だったよ。その言葉を言う母親の心の中が透けて見えるようだった。

俺はジョッキのビールを少しすすり、おしぼりで口を拭ってゆっくり言った。

「それはね」

「うん」

「母親が、おまえに、許してって言ってんだよ」

 

あ~~~~とYは、やっぱりかと言うかのように、あるいは腑に落ちたかのように、カウンターの上にあったテレビを見上げて無言になった。そして笑った。Yはなんか急に元気になったかのように笑いだし、俺の横にぴったりと身体をつけて、ふふふと落ち着かないように、厚焼き玉子頼んでいい?と言った。

 

あなたには価値がある、あなたは世界一の女の子、あなたはみんなに愛される、

女性は偉大、女性はすばらしいもの、自立して生きる女になりなさい、

あなたのことをお母さん愛してる、あなたのことをおかあさん信じてる、

あなたは美人、あなたは可愛い、あなたは自信持って、

 

そう言う母親が一番言いたいことって何?

「わたしを許して」ってことだよ。

誰か分からないくっさい精子を中出しして、欲しくもない子供が出来て、それで奥さんと別れるのを信じて産む決意したら別れてくれなくて、結婚してもらえなくて、それで強がって子供産んで、たぶんあなたは惨めな子、ごめんなさい、でもお母さんを許して。

そういうことだよな。あなたは無条件で価値がある存在。そう繰り返すのは、許しを請いたいから。

母親はそういうエクスキューズを娘に押し付けて生きてきた無神経で馬鹿な女なんだよ。くだらねえセックスに溺れることもやめられないくせに、男との不倫に依存するくせに、それでも娘には価値があると言ってしまう。

 

Yは厚焼き玉子に大根おろしを載せて、醤油をかけた。

「おいしそう」

ほふほふ言いながら一口食べて、Yは笑顔になる。「さすがアキラ“師”だよね」

その頃、俺はまだ師ではなく、ただのアキラくんだったんだけど。

 

じゃあ、もっと質問。そうYが言った。

「わたしは、母親になんて言ってもらいたかったんだろう?自分では分からないんだよね。」

 

ああ。俺は少しの間無言になった。エプロンをした女将にビールのおかわりを頼んだ。

「Y、おまえは不幸な出自で、父親似のブスな女だけど、世の中努力すれば結構いい思いもできるんだよ、世の中悪くない、だから勉強でも仕事でも頑張っていい思いしなさい。」

そう俺が言った。

そうだとしたら。もし母親がそれでも努力して每日面白おかしく生きようとしているのを見せてくれていたら、絶対違ったと思う。

 

Yは自分のことを言葉にしてくれて嬉しいと言った。

母親が、あなたの幸せあなたの幸せ、あなたの価値あなたの価値と繰り返す度に訳の分からない怒りでこいつぶっ殺してやろうかと思ってた。

自分の弱さと、自分の不安と、自分の後悔、自分の失敗を、娘になすりつけていたってことだったんだね。自分は何も努力せず、ただスレた女気取り、ワル気取り、そして不幸な女ごっこ。

母親が価値を持つのは自分に対してであって、娘に価値をなすりつけることじゃない。どうせ中出しセックスで間違えて出来た惨めな子供なんだから。

 

でも俺が言うよ。

世の中捨てたもんじゃない。おまえは不倫ちんぽから生まれた本来必要ないガキで、風俗嬢としてはブスだけど、努力すればいい思いもたんまりできるんだぜ?俺と楽しくやろうぜ。

 

居酒屋からの帰り道、住宅街の暗い路地を歩く時、Yが俺の腕に手を回した。

「17歳のとき、家を飛び出してよかった。」

そうYが言った。

公衆便所みたいな家で根暗な母親におまえには価値があると言われて育って、高校もろくに出てなくて、会社の便所で旦那が首吊ってくたばって。

意味がわからなかったよと。

 

その夜は、俺の部屋でソファでぶっ倒れるまでまたビールの飲みながらピザを食べて過ごした。