「その後」の世界

俺は18歳から「闇夜に浮かぶラズベリー色の花の世界」にいた。

東京、というより当時アジアで一番いかがわしく、一番闇が深い街。

 

そこは俺のように虐待を受けて育ち、生まれてきたのが間違いと言われ続けてきた人間が日本中から集まってくる場所だった。

俺は障害を持っていたが治療や処置を受けさせてもらうこともなく、家では殴られ食事も与えられず、学校では徹底的に苛め抜かれた。友達もいない。学習が遅滞して高学年になっても九九が言えず漢字もろくに書けない有様で。風呂にも入れず臭いので当然虐められるよね。しばらく言葉さえ喋られなかったんだから、自分がどれほど苦しくて嫌な思いをしているのかさえ人に伝えられない。言葉を持たないというのは悲惨で、SOSを発信することができないということだよ。

そんな俺は、殴られても馬鹿にされても、ただ笑っているだけの惨めな子供だった。

 

そうやって育った俺は、18歳になると育ててくれた養父母の元を離れて上京した。上京するとき、実の母親に会おうとしたが拒否をされたけれど、養母が少し涙を浮かべたような顔をして駅で見送ってくれたんだ。育った街にはまだ新幹線の駅もない時代。乗り込んだ特急列車で1人泣いた。

東京で何をするのか何者になるのか、何も分からなかった。自分が何が出来るのか知らなかったし、これから何歳まで生きられるのかさえ考えたこともない。一つ言えるのは、別に長く生きなくてもいいやってことだった。いつ死んでも良かったし、何なら今日くたばっても構わなかった。

俺のような馬鹿の能力で、1人で生き抜くなんて無理だと思っていた。1人で金を稼いで、1人で食事して、他人と人間関係を築いて、なんて。人にとって当たり前のことが俺には無理だと分かっていた。そんな俺の能力の低さで1人で東京に出るなんて、自殺行為だと思っていたから母親は気が狂いそうになるほど心配したんだ。

俺はこのまま死ぬつもりで上京した。夢もなく覚悟もなく、ただ死ぬつもりで。

 

その先で待ち受けていたのは、絶望的な孤独。心が切り裂かれてしまうような劣等感。キラキラした東京の夜で、俺だけが1人、友達も知り合いもいなかった。家具もないがらんとしたアパートの部屋で、一日一日がものすごく長く感じた。

それでも、東京はそれ以上に熱気に咽返るようだったし、見たこともない美しい女たちが歩いていた。テレビも電話もないその部屋で、每日本だけを読んで過ごしていた俺だったけれど、アルバイトをしている時に知り合った女に誘われて、夜の世界に吸い込まれていった。

別にそんな派手でいかがわしい世界に興味があったわけじゃない。それでも行き場所のない、つまらない每日を送っていた俺には友達が出来るかもというだけの理由で受け入れた世界だった。そう、友達づくり。同世代の大学生が入学するとサークルに入るように、俺は夜の世界に友達を求めて行った。

行くまでは知らなかったけど、その世界に行ってみると、俺と同じような人間ばかりがたくさんいた。まるで胡散臭い宗教にハマっていくように、俺は風俗の世界を居場所にするようになった。そこには、無価値と言われ続けて育ったような同類の友達がたくさん出来たからだ。みんなそこでしか生きていけないように見えたし、実際そうだっただろう。そこにたどり着けなければとっくの昔に死んでいたに違いない。

ガキの頃の俺にまともな家族があったとしたら、きっとこういう場所だったのかもしれない。横暴で厳しいけれど愛情に溢れるオヤジ、ちょっと馬鹿で間が抜けてるけど無条件に優しい母、よくイジメるけど遊び相手になれる兄、臆病でいつもべったりくっついている妹。それが俺にとっての、夜の世界だった。

家族というのが陳腐なら、そこを俺はムーミン谷と呼ぶ。ムーミントロールやスニフやスナフキン、そしてさびしがりやのクニットがいる、あの谷だった。

 

でもどうだろうか。

そのうち、その世界からは足を洗うときが来る。足を洗うきっかけは人によって様々だ。

ある人は親や家族に「救出」と称して田舎に連れ去られていく、

ある人は店や会社が潰れてしまい、居場所をなくして放り出される、

ある人は彼氏や彼女が出来て、辞めようと決意する、

ある人は病気を悪化させて行方不明になる、

ある人は、殺されてしまうか、自分を殺してしまう。

オーナーでもない限り、その世界から身を引く時はほんの数年で訪れる。

ムーミン谷から出た後、多くの人間はまた絶望的な生きづらさを抱えて行きていくことになる。

 

たとえば、家族に「救出」されて田舎に連れ去られた女は、東北のバスが一日に4本しかない田舎町でうつ病になり、每日母親をなじり、父親をバットで殴り、売春に明け暮れ、最後に自殺した。

ある女は、「まともな世界」で生きたいと願い、履歴書にウソを書いて普通の会社に就職しようとした。しかし、単なる事務員の仕事の給料では家賃を払ってメシを食ってしまえば、ろくな化粧品も買えず、美容院に行けなくなり、去年買った服をまた着るのがやっとの生活でしできない。やがて忘れようとしていたはずの夜の世界に半歩ずつ足を踏み入れてしまい、最後は勤め先にもバレてしまって解雇になる。たった一年もしないうちにまたもとの生活に戻ってしまう。勤め先にバレるのはたいてい客とトラブったことがきっかけでチクられてしまうんだ。だから勤め先の同僚や先輩からの信用もなくなって放り出されるので、夜の世界により強く依存するようになってしまう。完全にリバウンドだった。

ある女は、結婚した翌週から不倫が始まった。子供が出来て臨月だと言うのに違う男とラブホテルに行くようなザマだった。そして生まれてきた子供の首が座る頃には離婚していた。何の不満もないような立派な夫だったというのに。

 

「まともな生活」をしようとすると、みんな自分の出自を再認識することになる。夢うつつで忘れていたことを数年ぶりに思い出すことになる。社会を下から見上げて知ったようなつもりにはなるが、実は何も知らなくて、知っているのは小賢しいテクニックだけ。年だけ食っているので、普通の社会でやれることはほとんどない。やれる気がしていたのもつかの間、あっけなく恐怖感で凝り固まってしまう。

それと金銭感覚の問題も加わり、元の世界に戻っていくのが常だ。

 

俺の場合は、22歳で一度会社員になった。田舎に戻って、4月に新入社員として働いたんだ。正直、何も悪くなかった。每日出勤すれば固定給はくれるし、年金に健康保険もあるし、休んだことはないけど休んでも給料が減るわけじゃないって聞いた。それに周りの社員はいつも愚痴を言っていた。会社のせい、上司のせい、客のせい、いつも自分以外の誰かのせい。そんな話をツマミにして酒を飲んでいた。

俺はその会社では誰も友達はいなかったけれど、別にそんなの慣れていたし、こんな環境じゃ出世は楽勝だと思った。夜の世界で習ったことがそのまま通用する部分が多かったしね。平和ボケしたやつらの中では、このハードにサバイバルしてきた俺様の勝ちだと思った。

でもまあ、仕事は慣れてくるとつまらなく思えて。だって20年先の先輩が20年後の自分の姿だろ。それは、42歳になってもカネがないと後輩にぼやく情けないやつれた会社員の姿だった。なんか冷めちゃって、2年ほどで自営業者として起業し会社を辞めることになったんだ。

実はもっと大きな理由があって。そのまま仕事を続けていたら、俺は犯罪者になったような気がする。自分の心の奥底のほうになる暗いものが広がっていく気がずっとしていた。夜の世界にいると何も感じなかったどす黒いものが、床にこぼした墨汁のように広がっていく気がした。夜の世界だったから飼いならしていたのかもしれない。それがこの隙だらけのサラリーマンの世界では、野獣を放つようなものだと思った。

もちろん会社で横領も不正も一度もしなかったけれどね。でもそのうちもっと大きな犯罪を犯すに違いないと思ったんだ。

会社を辞めるとき、役員までもが俺を引き止めてくれた。慰留してくれたのはものすごく感謝している。でも、「俺はそういう立派な人間じゃない」という思いがどこかにあって。

まるで走り去るようにその世界から消えた。

 

案の定、そこからの人生は苦労しっぱなしだった。犯罪を犯したことは立ちションと速度違反しかない。誘惑もあったし、いかがわしい儲け話もたくさんもらった。でも全部断った。

けれど、金銭面でまともな人生になるには長い年月がかかったし、精神的なものは障害もあるので今も每日を生き抜くことで精一杯だったりする。前者のことでは信頼も信用もなくしたことがあり、後者のことでは人間関係を失うことにもなった。

それでも、まあ、人生は悪くないなとは思ってる。死ぬまでは生きるしね。

 

だが、風俗業界にいた俺のもとでスタッフをしていた女性たちの多くは、「その後」の人生は全くうまく行っていないことが多い。やっぱりね。

原因ははっきりしていて、俺は無責任に甘やかしたこと、なんでも肯定してきたこと、ムーミン谷よりももっと谷底にあるアキラ渓谷にムラを作って住まわせていたこと。

その先に卒業するときが来た後どうなるかというと、言葉は悪いが、社会不適合者そのものだろう。

知っているようで何もしらない現実と、狂いっぱなしの金銭感覚と。それに、普通の社会では「情」を基準に物事考えてくれないってことに戸惑ってしまう。根拠も何もないけど、おまえを信じるとか、悪いことをした過去を本当に忘れてもらえるという超能力とか。現実の社会はそんなわけはない。エビデンスと履歴が重要なんだから。

 

当時、俺もまだガキ経営者だったので、その後に野に放つときの作法を知らなかった。

 

いまだったらどうするだろう。野に放つ時になんてアドバイスするだろうか。

 

きっとこう言う。

「大学を卒業した22歳と同じ人生になれると思うな」って。

「高校を卒業してから中小企業で事務員をして、23歳で出来婚をして主婦になった同級生と同じ世界で生きていけると思うな」って。

 

言いすぎかもしれない。

同じように就職もできるし、主婦にもなれる。何にでもなれるよ。今まで頑張って働いてきたんだから。

でも、心の奥底にあるその野獣を飼いならすことが、一生できるのであれば、だ。

真っ黒いものが墨汁のように広がっていくのを食い止めることができるのであれば。

 

俺は出来なかったよ。22歳で勤めた会社を、何も悪いことをしていないのに逃げるように辞めた時、ここで野獣を放つわけにいかないと思ったんだ。 

 夜の世界は腹の底の野獣に生肉のエサを与え続けるんだってこと。言葉にすればそういうことかもしれない。生肉の味を覚えてしまえば、次は鳥小屋を襲って食うだろう、そのうち人間を襲って骨までしゃぶるようになる。

 

ADHDの3割が自営業だってツイートをどこかで見たが、似たようなものかも知れない。普通の新卒の子達がやること、やれることとは決別して、自分で仕事を作って食べていくのが一番安全な気がする。

そして交際したり結婚したりする相手も同じことで、同じ世界の人間はあまり勧めないけれど、腹の底にある野獣を見たことがあって鞭で調教できる器の人物と一緒にいるべきだ。絶対に、何も知らない純粋培養の男といるべきじゃない。絶対にその彼の肉を食うことになる。その彼と築いていたはずの幸せを自分の手でぶち壊すようなことをするようになる。

そう考えると仕事も恋愛も家庭も、全部難しい条件になりそうなんだけどさ。

わざわざ生きづらい世界でまともぶって生活するよりも、仕事と恋愛を自分に合わせてわがままにオーダーメイドしたっていいわけね。

 

昔の俺は、スタッフの子たちが、普通の親なら安心するような進路に進むことを望んでいた。普通に就職したり、一般的に認知されている職業に就いたり、結婚したり、主婦になったり、昔からある職種に自営でなるとか。

全部間違いだった。

 

本当はこうだった。

普通の生活なんて無理なんだから、好きなように生きて金を稼いで、犯罪者になったり自分の家庭を壊すような真似だけは避けろ、って。

少なくとも、誰もが知っている職業に就いて、まともぶって苦しげに生きるのはやめろて。