主観でものを語る人間に、正義マンは勝てない

最近ぽっきい先生がTwitterであちこちに噛み付いていて、俺も見ていて面白いなあと思って見ている。今回の牙を剥いたのは、「モテない男に対して関係ない女が説教をし、小馬鹿にしている」ということだった。ツイートが止まらず、その男臭さに、世の中のおっさん達は共感を覚えたかもしれない。

内容はともかくとして、俺なんかでも、ハッと思ったことがある。

 

ああ、そうだよな。忘れてたなって思い出した感情があるんだよね。

 

ぽっきいは、もともと歩く侠気みたいな人間なので、ネットの中だけではなくリアルの生活でも結構人に噛み付くことが多い。その怒りの源泉は、「自分ではない誰かが傷ついている」ということだと思う。誰かに対して、反論ができない正義のような一般論で馬鹿にし、傷つけようとしているということにものすごく敏感なんだと思う。

でもまあ、そうだよね。決して社会のメインストリームにいるわけじゃなく、道路で言えば歩道のさらに外側の砂利の上をトボトボ歩くような階層の人間だ。俺もそう。人の目につかないように、隠れるように生きている階層なんだよ。そんな人間は、他人が誰かを傷つけようとしているということに激しく義憤する。

 

それがいいかどうかは別にして、俺も忘れていたことがある。

それは、「自分という主語を用いて、主観を声高に主張しているか」ということ。

 

今の世の中って、もしかしたら「正しいこと」を求めすぎているのかもしれない。気に食わないことがあっても、頭にくることがあっても、「客観的に見てどう判断すればいいんだろう」とか「正義はどちらにあるんだろう」とか考える人が多いんだと思う。

だから、正しいのか確信が持てないことには、発言しないのが癖になってる。

ロジカルで、正しいことを、小粋な表現で曰い、暴力的な反論には華麗にスルーする。それがかっこいいことだと思われがちだ。

それができない子どもたちは、言葉もなくニヤニヤして、自分を腐して引きこもっている。

 

でもどうだろうね。

俺はそれが正しいとは思わない。

 

少し前に、Twitterで、「産婦人科に出入りするJKが多くなって、簡単に堕胎するなんてけしからん」ってツイートして大炎上したおじさんがいたよね。

まあ、そういうJKばかりじゃないだろうとは思うが、だからといってこれ見よがしに金属バットで殴りつけるような正義マンが多くて、辟易するんだよね。

それってさ、後出しジャンケンみたいなもんじゃない。

誰かが殴っているから、自分も殴る。誰かが怒っているから自分も腹が立ってきた。そんなもんでしょ。産婦人科に出入りするJKに対して、知らないおじさんがどう考えようと基本的に関係ないわけ。

または、そういう揉め事を見て、もっと卑怯なオヤジもいるよな。後出しジャンケンどころか、後日出しジャンケンみたいなもんで、「どっちの言い分もわかる」みたいに言い出す奴。滑稽だね~とかいいながら、沈静して安全になってから言うオヤジ。

 

ここで俺が思うのは、圧倒的に正しいのは、最初に発信したおじさんだと思う。なぜなら、主語を自分にし、主観を主張しているのはただ一人だけだったと思うから。

もちろんおじさんの見解が正しいとは思わないけど、主観を主張し、明確に意思を持って喧嘩を売りに行ったところが俺は価値があると思ってる。

 

他人の意見が正しいかどうかジャッジする裁判官が、特に20代の子供中心に多すぎるよ。

そう思ったんだから思ったんであって。

それを明らかに特定の個人や、特定の人種や団体を攻撃するのはモラル的にアウトだろうけど、それにしたって、「俺はこう思う」とか「俺はそうは思わない」とか「俺はそれは間違ってると思う」とまず言うことの価値って、最近粗末にされすぎている。それが的外れだとしても、主張することの価値を軽んじるべきじゃない。

 

間違っていたらだめなことなのか?

だめじゃないでしょ。なんで完璧マンじゃなきゃだめなの。

 

俺の仕事でも、20代の男数人と打ち合わせをすると、このあたりが顕著なんだよね。ほんと意見を言わない。正しいかどうかをまず考えているのが分かる。そして全く聞く価値もないような一般論を言う。

聞いてねえよそんな一般論は。こっちも正しいし、あっちも一理ある、なんてどうでもいいわけね。

そして、40代50代のおっさんやおばさんがほぼ口論レベルで議論し、時に罵倒までしてる姿を見て、「必死過ぎて引いた」とか陰で言い合う。しかし、その必死に喧嘩したおっさんおばさん同士は、相手の考えていることがどんどん分かってくる。もちろんムカつくことのほうが多いが、「あいつの考えているのはこうだ」と正確に理解している。お互いを尊重しているのはその喧嘩議論してベストの着地を模索したおっさんの方で、一般論と綺麗事で逃げた子どもたちは、仕事の仲間同士で陰口を言い合う関係になってしまう。

バカ呼ばわりして議論したおっさんとおばさんが、なぜその後一緒に飲みに行けるのか、全く理解できないようだ。簡単な話で、喧嘩と議論はしたけど憎しみはないし、リスペクトしてるからなんだけど。

 

客観性も、俯瞰する目線も、俺は優先すべきことじゃないと思うんだよね。

主観と主張のバトルをするしか、解決と進化の手段がないことのほうが多いよ。この時、嫌味は絶対にだめだ。喧嘩する気もないのに、嫌味を言ったり、放り投げたり、そこから立ち去るのもだめ。

「そこはそうじゃねえ、馬鹿かおまえは。それはこうだ」そう言って議論をふっかけたら、相手が激昂して主観で反論するのが正しいあり方だよ。相手を怒らせる言い方をワザとして、喧嘩腰で返事が返ってくるというのが、正々堂々とした議論であって、俺は一番相手をリスペクトできるプロセスなんだよね。

 

もちろんそのコミュニケーションの仕方は、前時代的だろうね。子どもたちにそれをやったら、本当に泣くから。泣くか、家に帰ってネットで愚痴るか、病んだとか言ってメンヘラ決め込むから。だから誰もまともに正面からコミュニケーションしてくれなくなるし、褒める価値もないところを褒めてもらってニヤけるだけの無能な人間が出来上がるんだけど。

俺は、言わなくていいことは言わなくていい、黙っていればいいしそれで若手がだめになっていくならそれでいいとすら思ってる。黙る。それが今の時代を生き延びるおっさん達の自己防衛かもしれないよね。

 

ただ、そんな「黙る」という行為も、もうすぐまた時代遅れになるかもしれない。もし主観と主張をゴリ押しする文化が、もっと強く押し出してきた時、正しさにこだわる今の子どもたちがおっさんになっていて、きっと若い子に言われる。

「またあのおっさん、正論で逃げたよ」って。

 

間違っていても、主張する人間のほうがどうしてもリスペクトを受ける。正しいことを言うより、自分の主義を主張できる人間、喧嘩する腹が決まってる人間と友達になりたいに決まってる。

無関心や正しさに拘って、結果無責任で自分勝手な生き方をするのは、決して現代的とは言えない。本当の弱者なんだよ。

 

喧嘩しないのもいいことだ。でもそのときは、他人に嫌味を言ったり、人を小馬鹿にする表現を一切すべきではない。他人がプレッシャーを感じるあり方を一切消して、存在感を無くして生きるべき。それも、あり方だとは思う。

ただ、尊敬も信頼も縁はないよ。尊敬と信頼が何か知らない人からの尊敬と信頼は受けられたとしても。

 

主張するというのが、これからの大人としてあるべき責任のとり方のような気がしてる。