過去をなぞるという作業は、恋人としたほうがいい

今日は突然午後の仕事の予定がキャンセルになった。どうしようかな、1人でどこかで気分転換でもしようかなと思っていたら、偶然、一人の女性からメールがあった。

 

俺はまだ携帯電話会社のキャリアメールを持っていて、アドレスもかれこれ15年以上も変わってない。今どきないことだが、そのキャリアメールのアドレスに突然メールがあった。発信が誰か分からなかった。名乗りもしないのに、俺の名前は知っていた。

相手は次第に分かった。俺が30歳のときによく遊んでいた女だった。ずいぶんと昔のことだ。でも懐かしいなあと思う気持ちは全くなく、全身に緊張というか寒気が走った。

当時、とても見栄えのする女だった。黒髪のロングヘアで、いつも黒い服を着ていた。セックスはとんでもなく強く、雰囲気があり、まだ若かった俺はずいぶんとその女に溺れていた。風俗業で女に慣れ切った俺でも、その女は特別な雰囲気があった。今でも時々その女のことを考えることがある。どうしてあんなに夢中になったんだろう、どうしてあんなに会っていたんだろう、と。

その女が、突然メールをしてきた。

何度も言うが、懐かしいわけじゃない。別に今はどうでもよく、むしろ彼女に対してずっと憎しみすら感じて生きてきた。最後に会ったのがいつなのか、最後に電話したのがいつなのか、全く覚えていない。覚えているのは、早く死ねよっていう気持ちだけ。大声で怒鳴って電話を切ったのが最後だったかもしれない。

 

俺の居場所を訊いてきて、ちょうど近くにいるから会えないかって言ってきた。ああ、思い出したよ。最初遊ぶようになった頃、俺もまだ20代でいきがっていた時代に、彼女は変な言い訳をつけて俺に会おうと誘ってきたっけ。100キロも離れたところに住んでいるのに、ちょうど近くにいるからって。

 

まあいい。今は本当に近くにいたんだろう。でも今日はココロの居場所があまり良くない。体調も万全じゃない。そもそも会うつもりもない。だから「仕事があるから難しいね」と言った。

そしたら電話していいかって言う。そう、俺の番号はかれこれ20年も変わってない。

まあいい。「あなたの電話番号は消したから、俺の番号を覚えてるならかけてよ」と言った。その20秒後には電話がかかってきた。

 

昔遊んだ女なんて声も忘れているもんだし、話し方も全然思い出せないもんだ。電話の声を聞いて、昔一緒にいた女だなんて全く思い出せない。一回や二回だけ会った女じゃない。4年も一緒にいたはずだけど。若かったせいで、感情をぶん回して好き放題言ったりやったりしたのはこの女が最後だった。

それでも、その口調には記憶がない。

 

その後、結婚したらしいが子供には恵まれなかった。夫は去年胃がんで亡くなり、父親もすこし前に交通事故で亡くなったという。仕事だけが順調で、今、俺が住んでいる街の近くに夫が残した一軒家で暮らしている。住宅ローンは夫にかけていた団信で無くなった。今はお金には困ってないけれど。

なぜ俺に電話をかけてきたのか、俺は考える余裕も興味もなかったんだが、彼女が言うわけ。

「今ね、記憶というか歴史というか、なぞっているところ」

 

うん、と俺は言った。なんか、そっけない態度してごめんと思った。記憶をなぞる、か。俺がいいそうな言葉だね。20代のときも俺はそんな表現をしていたのかもしれない。

きっと今の人生に行き詰まっているのかもしれない。後悔なんかはないだろうけど、過去に積み上がった記憶をなぞって落とし前をつけなきゃならない時期なのかもしれない。そういう時期に、俺に会おうとしたり電話をかけてくるというのは、過去の恋愛を懐かしんでいるとか未練があるとかではなく、落とし前をつけたいというその一点なんだろうと思う。

それは理解できるよ。ココロの奥の奥まで透けて見える。

だから俺は言ったよ。

「おまえ、今彼氏いるんだろ?」

すこし無言になって言う。

「いるよ」

そう、彼氏がいなかったら、過去に落とし前つける気持ちにならないもんだ。彼氏がいるから、過去の積み上げに苦しくなっていく。過去が分厚いほど、苦しくなってしまう。

「気持わかるけど、こうしている間に、彼氏は離れていくよ」

彼女は乾いた声ですこし笑う。その意味は分かるだろう。

「相変わらずわかったようなことを言うね」

分厚い過去と、重力すら感じないほどの現在と。過去に囚われ、今そこにあるものの価値を軽く見積もる。

それはものすごく危険な迷いだよ。

「俺もね、つい最近、21歳のときに住んでいた街に行ったよ。アパートも見てきた。でも。気分は良くなかった。すぐに現実に戻らないと危ないと思った。現実が離れていくと思ったよ。」

「誰と行ったの?」

俺は答えなかった。

 

彼女は無言だった。

「気持ちは分かるから、安心しとけ」

そう言って、機会があったらお茶でもしようってことになって電話を切った。

幸せになれてないんだなと思った。過去をパトロールしなきゃならないとき、人は、揺さぶられるような人生の波に溺れそうになっている。そして本当は大切なものを軽く見てしまい、忘れ去ってもいいものを必要以上に人生の轍のように深刻に考える。でも、過去に落とし前をつけている間に、今そこにあるものを見失うことになるんだよ。彼女と最後に話したとき、もしかしたら怒鳴り散らした喧嘩だったのかもしれない。だとしたら、まだマシだった。本当に最悪なのは、あれが最後だと分かっていたらもっと違うことが言えたのに、という後々苦しむような別れ方をすることだ。別れ方を覚えていないのは幸せなことかもしれない。

 

それから俺は体調が悪くなり、多分低血糖の症状だと思うんだけど、全身が震えクルマの座席を倒してしばらく休んでいた。

 

記憶をなぞる、なんて、俺も必要なときがある。それは人生が苦しいとき。だから俺は必死で過去を思い出さないように頑張っても、記憶をなぞる作業ばかりする。

せめて、過去をなぞるときは、今の恋人や旦那さんや奥さん、または子供を巻き込んでやるべきなんだよね。そうじゃなきゃ危険なんだよ。心が崩壊するかもしれない。

 

今の彼氏を大事にしろよって言いたかったけど、余計なお世話なので言わなかった。