ラブレスキューためのスケッチ【分かっているけど分からないふりをしながらコーヒーを淹れている】

2000年代はじめ。世界貿易センタービルが崩れ落ちたあの時代の、七月の暑い夜。23時。

俺は小さなバッグを抱えて公園のベンチに座り、ビジネスホテルに電話しまくっていた。本当はその日に自宅に帰る予定だったのに、打ち合わせが長引き新幹線に間に合わなかったんだ。時間がなく切符を変更するために駅に行くこともできず、指定席を無駄にしてしまった。泊まるホテルくらいあるだろうと高を括っていたけれど、その次の日は人気アイドルグループのライブがあるらしくほぼすべてのホテルが埋まっていた。カプセルホテルまで満室。車で一時間もかかる近隣の町のホテルも、ネットカフェも、温泉旅館も、高級ホテルも、挙句の果てにはラブホテルもすべて埋まっていた。朝までやってるファミレスで本でも読んで始発まで待つしかないと諦めたが、のそのそ歩いて行ったファミレスすら若い女の女の子たちで埋まっていたほど街は一晩を明かす人で埋まっていた。

もうあきらめて公園のベンチで朝まで過ごそうと思い公園に戻ろうとしていると、メールの着信音が鳴った。何気なくそのメッセージを見ると、3年前まで付き合っていた元の恋人だった。

「今何してるの」そう書いてあった。彼女はその街から車で15分くらいの一軒家に住んでいた。元は実家だったらしいが、親は出身地の静岡県に引っ越してしまい今は彼女だけが住んでいる。

俺は野宿が決定したよって笑いながら話をしたら、暑いのに公園でいられないでしょ?臭くなるよとメッセージを送ってきて、すぐに電話もかけてきて、言う。

「体も弱いのに。車で迎えに行こうか?うちに泊まりなよ」

一瞬ありがたい話だとは思ったが、丁重に辞去しようとした。何年も前に別れた女で、新しい彼氏もいるだろうし、そもそも俺は別れた女の世話にはなりたくないと決めていたからだ。そういう性格はもちろん彼女も分かっていた。

「いいから。そこにいて。15分で着くから」

俺は断るタイミングを失い、茫然とそこに立っていた。本当に来るとしたら、会うのは3年ぶりだし、なんか、まずいことになったなあ・・・と思い、立ち去ろうかと考えたが大人げないと思いどどまった。

20分くらいもすると黒い軽自動車に乗った彼女が現れた。公園の隣の路上に停まり、俺に手を振った。俺が覚えている彼女はまだほんの幼い女の子だったんだが、目の前にいるのは随分と大人びた女性。

「ごはん食べてないんでしょ?何か食べていく?」

「ファミレスとかは席空いてないよ」と俺。

「じゃあ、何か作ってあげようか、仕方ない」

そう笑って寄ったのは24時間営業のスーパー。カップ麺でいいよと俺は言うのに、生姜焼きの材料を買ってくれた。

自宅の駐車場に着くと、俺は心配になって言ったよ。

「彼氏いるんだろ。昔の男を家に入れていいのかな」

「よくないならよくないで別にいいから」

彼女はなんかよくわからないことを言って、車を降りて家の中に入った。家の中は明かりがついたままだった。これは昔から変わらない癖で、外出するときは必ず明かりをつけたまま出かける。いつもは玄関の靴をきれいに揃えているが出かけるときは男物の靴をわざと散乱させる。外の洗濯竿には男物のシャツを二枚かけっぱなしにする。そのうち一枚は、俺が昔置いていったブルーのシャツ。

シャワーを借りると、匂いのいいバスタオルを用意しておいてくれた。さっぱりして部屋に戻ると、すでに料理が完成していた。生姜焼きのいい匂い。料理のうまさもよく覚えている。生姜焼きの他にも、鰈の煮つけとか、チーズたっぷりのグラタンとか、親子丼とか、こんな女と結婚できたら幸せだろうなと何度も思うほどだったっけ。

「こんな料理をいつも食べさせてもらえる彼氏がうらやましいよ」と俺が言うと、

「そうかな。だといいけど」と彼女は言った。声にも表情にも元気がない。それを見て俺はそれ以上、彼氏の話題は止めようと思った。部屋の中に男の影がどこにもないのに気づいた。彼氏の写真もないし服もないようだ。

クーラーがよく効いた部屋でビールを飲みながら、俺は近況を話した。最近の体調や、仕事のこと、恋愛のこと。恋愛のことについては特に詳しく聞きたがったので、丁寧に教えた。最近うまくいってないことや、喧嘩したこと、連絡も途切れ途切れになっていること。俺としては別れるつもりでいること。

そうしているうちに、時計は午前2時半を回り、そろそろ寝るよっていう話になった。俺はリビングのソファを借りることにした。彼女は、一緒にベッドで寝たらいいのにと言ったが、それはさすがに避けた。

「おやすみ」そう言って、リビングの照明を消して彼女は寝室に行った。窓の外にある街灯の明かりが、薄いカーテンの隙間から部屋をほんのりと照らしていた。眠りにつくまでほんの30秒程度だったと思う。遠ざかっていく意識の中で、4年前、彼女と初めて出会った時のことを夢に見ていた。待ち合わせするたびにいっぱいの笑顔で駆け寄ってくれていたっけ。でも、別れるときは笑顔もなく、ため息だけがあった。別れた理由はよく分からない。きっと、別れることよりも、やることがあったんだと思う。やるべきことを、別れることと勘違いしてしまったのかもしれない。俺は彼女を恨んだことはないし、思い出を否定したことも隠したこともない。

切ないもんだ。明日、目を覚ましたらそそくさと出ていこう。ご飯を食べさせて宿を提供してくれたお礼は何かでしなきゃならないな、何にしよう、、、そう思いながら、タオルケットを顔まで引き上げて気絶してしまった。

 

いびきをかいていたんだろうか。眠っていると揺り起こされた。無理やり手を引かれ、彼女のベッドに連れていかれた。時計を見るとまだ30分しか経っていない。寝室のセミダブルのベッドに入ると、彼女はおやすみと言って、端ですぐに寝息を立ててしまった。俺は何も気づかないふりをして、ベッドに沈み込んでいくように寝息を立てたふりをしてずっと暗闇の中の天井を見ていた。

この家は彼女の父親がこだわって建てた小さい家で、板張り天井は木目が全部つながっている。床はアカシアの無垢材で。随分古い家だけど、50年、100年で住めそうな家だった。この家は彼女によく似合っていた。ベッドのわきに置いた猫のぬいぐるみだって、丁寧に暮らす彼女のセンス。この寝室に漂う香りにしても。

そのうち俺もまた眠りに落ちていった。

 

次の朝、目を覚ますともう10時を過ぎていた。

コーヒーを淹れるよと俺は言い、コーヒー豆をグラインダーで挽いた。不思議なことにまだ豆のありかも、カップの置き場所もすべて覚えている。コーヒーの匂いが立ち上がり、俺はずっと抽出される黒い液体を眺めていた。

分かっているけど、何もわからないふりをしながら。

 

彼女はパンを焼いてくれて、目玉焼きを作ってくれた。両面を焼くのが彼女の流儀。テレビでは同時多発テロ事件の特集が流れていた。あのビルで犠牲になった人には家族がいて、偶然、現場で遺品を見つけたのだと言う。

「もし急いで帰られないなら、動物園行こうよ」彼女はそう言って誘った。

彼氏がいるのにいいのかい?と聞くのももう違う気がして、行こうかと俺は言って、熱いコーヒーを飲み干した。

食べ終わって身支度をして、彼女の軽自動車に乗り込んだ。昨日と同じように蒸し暑い日だった。空を見上げると、雲が太陽に照らされて白というより銀色に見えた。

 

結局その日は、また最終の新幹線に乗り込むまで一緒にいた。動物園に行き、食事をして、街をぶらついて。

何かを期待しているわけでもないけれど、何も気づかないふりをするのが少しもどかしく、大きな声で笑って見せる自分に少し嫌気がさしてくるころ、ちょうど新幹線の時間になった。

駅のロータリーの前で車から降りるとき、俺が言った。

「泊めてもらったお礼に、今度、どこかいこうか」

彼女は笑顔で、そうね、連絡待ってるよと言った。笑顔で手を振って車を出発させ、俺は交差点を左折して見えなくなるまで、彼女の車を見つめていた。

新幹線の改札をくぐりぬけ、ホームに着くと生ぬるい風が通り過ぎて行った。

 

分かっている。分からないふりをしているけど、分かっている。そう独り言を言った。それから二度と連絡をすることはお互いなかった。

それがなぜだったのかも、今も分からない。

別れたり、また連絡をしたり、また会ったり。恋愛って一緒にいる根拠なんて浮ついて甘い感情からであるけれど、別れる根拠なんて本当に見間違えてしまうことがほとんど。本当は、別れることが象徴する何かを求めていただけだったんだと思う。それを後から再構成するなんて、10代の夢のようなものでしかない。

 

彼女もいまだに結婚していないことを思うと、少し苦しい気持ちになる。