そもそもそれは「知性」ではない

最近、これを教えてもらって読んだ。中学2年の国語の教科書に載っている「ガイアの知性」という文章。
筆者はドキュメンタリー監督で、元NHKのディレクターだった龍村仁氏。地球交響曲などの作品で知られている。
映画もそうだが、この文章からもまったりと漂ううさん臭さ。良くも悪くも。
大事な部分に差し掛かると論拠が全くないまま、ムードに酔って進む文章は、最後はオカルトな方向に飛んでいく。論理破綻を起こした花火を打ち上げたら、酔いしれる人たちがいるんだろう。よく考えたら分かることを、頭の中で勝手な何かで補ってスピリチュアルの方向で感動する群れはどこにでもいる。ネットワークビジネスをやるような人達が地球交響曲にハマるのは分かる気がする。
思考の癖なんだろう。
でもそんな文章の中である一部分が、俺には印象に残った。もちろん事実として認めているではなく、メタファーとしてだが。
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龍村仁 『ガイアの知性』より〜
ここ数年、わたしには鯨と象を撮影する機会がとても多かった。特に意識的に選んだつもりはないのに、結果としてそうなってきた理由を考えてみると、これは、鯨や象と深くつきあっている人たちが皆、人間としてとてもおもしろかったからだ。  
人種も職業も皆それぞれ異なっているのに、彼らには独特の、共通した雰囲気がある。  
彼らは、鯨や象を、自分の知的好奇心の対象とは考えなくなってきている。鯨や象から、なにかとてつもなく大切なものを学び取ろうとしている。そして、鯨や象に対して、畏敬の念さえ抱いているようにみえる。  
人間が、どうして野生の動物に対して畏敬の念まで抱くようになってしまうのだろうか。この、人間に対する興味から、わたしも鯨や象に興味を抱くようになった。そして、自然の中での鯨や象との出会いを重ね、彼らのことを知れば知るほど、わたしもまた、鯨や象に畏敬の念を抱くようになった。 
今では、鯨と象は、わたしたち人類にある重大な示唆を与えるために、あの大きな体で(現在の地球環境では、体が大きければ大きいほど生きるのが難しい。)数千万年もの間この地球に生き続けてきてくれたのでは、とさえ思っている。
 
大脳新皮質の大きさとその複雑さからみて、鯨と象と人はほぼ対等の精神活動ができる、と考えられる。すなわち、この三種は、地球上で最も高度に進化した「知性」をもった存在だ、ということができる。実際、この三種の誕生からの成長過程はほぼ同じで、あらゆる動物の中で最も遅い。一歳は一歳、二歳は二歳、十五、六歳でほぼ一人前になリ、寿命も六、七十歳から長寿のもので百歳まで生きる。本能だけで生きるのではなく、年長者から生きるためのさまざまな知恵を学ぶために、これだけゆっくリと成長するのだろう。
このような点からみると、鯨と象と人は確かに似ている。しかし、だれの目にも明らかなように、人と他の二種とは何かが決定的に違っている。
現代人の中で、鯨や象が自分たちに匹敵する「知性」をもった存在である、と素直に信じられる人は、まずほとんどいないだろう。それは、我々が、言葉や文字を生み出し、道具や機械をつくリ、交通や通信手段を進歩させ、今やこの地球の全生命の未来を左右できるほどに科学技術を進歩させた、この能力を「知性」だと思いこんでいるからだ。  
これらの点からみれば、自らは何も生産せず、自然が与えてくれるものだけを食べて生き、あとは何もしないでいるようにみえる(実はそうではないのだが)鯨や象が、自分たちと対等の「知性」をもった存在とはとても思えないのは、当然のことである。
 
しかし、一九六〇年代に人って、さまざまな動機から、鯨や象たちと深いつきあいをするようになった人たちの中から、この「常識」に対する疑問が生まれ始めた。 
鯨や象は、人の「知性」とは全く別種の「知性」をもっているのではないか、あるいは、人の「知性」は、このガイアに存在する大きな「知性」の偏った一面の現れであリ、もう一方の面に鯨や象の「知性」が存在するのではないか、という疑問である。  
この疑問は、最初、水族館に捕らえられたオルカ(シャチ)やイルカに芸を教えようとする調教師や医者や心理学者、その手伝いをした音楽家、鯨の脳に興味をもつ大脳生理学者たちの実体験から生まれた。
彼らが異口同音に言う言葉がある。それは、オルカやイルカは決して、ただえさを欲しいがために本能的に芸をしているのではない、ということである。 
彼らは捕らわれの身となった自分の状況を、はっきリ認識している、という、そして、その状況を自ら受け人れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そしてその状況の下で自分自身も、精いっぱい生きることを楽しむために、「芸」と呼ばれることを始めるのだ。水族館でオルカが見せてくれる「芸」のほとんどは、実は人間がオルカに強制的に教えこんだものではない。オルカのほうが、人間が求めていることを正確に理解し、自分のもっている高度な能力を、か弱い人間(調教師)のレベルに合わせて制御し、調整をしながら使っているからこそ可能になる「芸」なのだ。 
 
例えば、体長七メートルもある巨大なオルカが、狭いプールでちっぽけな人間を背ビレにつかまらせたまま猛スピードで泳ぎ、プールの端にくると、合図もないのに自ら細心の注意をはらって人間が落ちないようにスピードを落とし、そのまま人間をプールサイドに立たせてやる。また、水中から、直立姿勢の人間を自分の鼻先に立たせたまま上昇し、その人間を空中に放リ出す際には、その人間が決してプールサイドのコンクリートの上に投げ出されず、再び水中の安全な場所に落下するよう、スピード・高さ・方向などを三次元レベルで調整する。こんなことがはたして、ムチと飴による人間の強制だけでできるだろうか。ましてオルカは水中で生活している七メートルの巨体の持ち主なのだ。 
そこには、人間の強制ではなく、明らかに、オルカ自身の意志と選択がはたらいている。狭いプールに閉じこめられ、本来もっている高度な能力の何万分の一も使えない過酷な状況におかれながらも、自分が「友」として受け人れることを決意した人間を喜ばせ、そして自分自身も生きることを楽しむオルカの「心」があるからこそできることなのだ。
また、こんな話もある。 
人間が彼らに何かを教えようとすると、彼らの理解能力は驚くべき速さだそうだけれども、同時に、彼らもまた人間に何かを教えようとする、というのだ。 
フロリダの若い学者が、一頭の雌イルカに名前をつけ、それを発音させようと試みた。イルカと人間では声帯が大きく異なるので、なかなかうまくいかなかった。それでも、少しうまくいったときには、その学者は頭を上下にうんうんと振った。二人(一人と一頭か)の間ではそのしぐさが、互いに了解した、という合図だった。何度も繰リ返しているうちに、学者は、そのイルカが自分の名前とは別の、イルカ語のある音節を同時に繰リ返し発音するのに気がついた。しかしそれが何を意味するのかはわからなかった。そしてある時、はたと気づいた。「彼女はわたしにイルカ語の名前をつけ、それをわたしに発音せよ、と言っているのではないか。」そう思った彼は、必死でその発音を試みた。自分でも少しうまくいったかな、と思った時、なんとその雌イルカは、うんうんと頭を振リ、とてもうれしそうにプールじゅうをはしゃぎまわったというのだ。
 
象については、こんな話がある。  
アフリカのケニアで、ある自然保護官が象の寿命を調べるため、自然死した象の歯を集めていた。草原で新しく見つけた歯を持ち帰リ倉庫に納めておいたところ、その日から毎晩、巨大な象がやってきて、倉庫のかんぬきを開けようとする。不思議に思ったその保護官は、ある晩、かんぬきを開けたままにしておいた。すると、翌朝、数百個も集められていた歯の中から、その新しく収集した歯だけがなくなっていた。保護官がその歯を捜したところ、その歯はなんと、彼が発見したまさにその場所に戻されていたのだ。毎晩倉庫にやってきた象は、たぶん亡くなった象の肉親だったのだろう。それにしてもその象は、どうやって歯が倉庫にあることを知ったのだろう。数百個もある歯の中から、どうやって肉親の歯を見分けたのたろう。そして最大のなぞは、その象が、なぜ歯を元の場所にわざわざ戻したのだろう、ということだ。 
このように、鯨や象が高度な「知性」をもっていることは、たぶんまちがいない事実だ。
しかし、その「知性」は、科学技術を進歩させてきた人間の「知性」とは大きく違うものだ。人間の「知性」は、自分たちだけの安全と便利さのために自然をコントロールし、意のままに支配しようとする、いわば「攻撃的な知性」だ。この「攻撃的な知性」をあまリにも進歩させてきた結果として人間は環境破壊を起こし、地球全体の生命を危機に陥れている。これに対して、鯨や象のもつ「知性」は、いわば「受容的な知性」とでも呼べるものだ。彼らは、自然をコントロールしようなどとはいっさい思わず、そのかわリ、この自然のもつ無限に多様で複雑な営みを、できるだけ繊細に理解し、それに適応して生きるために、その高度な「知性」を使っている。 
 
だからこそ彼らは、我々人類よりはるか以前から、あの大きな体でこの地球に生きながらえてきたのだ。同じ地球に生まれながら、片面だけの「知性」を異常に進歩させてしまった我々人類は、今、もう一方の「知性」の持ち主である鯨や象たちからさまざまなことを学ぶことによって、真の意味の「ガイアの知性」に進化する必要がある、とわたしは思っている。”

とまあ、こんな感じで笑っちゃうんだけどね。たぶん間違いない、とか根拠も示さず言い切るのがすごい。
でも、俺がふと目を止めたのはこの部分。ここだけ。

「彼らは捕らわれの身となった自分の状況を、はっきリ認識している、という、そして、その状況を自ら受け人れると決意した時、初めて、自分とコミュニケーションしようとしている人間、さしあたっては調教師を喜ばせるために、そしてその状況の下で自分自身も、精いっぱい生きることを楽しむために、「芸」と呼ばれることを始めるのだ。」

これをメタファーとして捉えると何かに似てるかもしれないと思った。

それは、さまざまな病気のせいでアンダーアチーバーとなったごくごく少数の才能らしきものがある可能性がある人たちのこと。
知性や才能に対して、社会的知性が欠けているせいで社会で全く必要とされていない人。才能に恵まれていても、それを翻訳する能力がかけているせいで才能がないこととイコールになっている人。才能らしきものがあるけど、売ることに失敗した人。
(私もこうなんです!とか自分で言っちゃう系の人がよく現れるけど、作品や成果物にすでに片鱗が見えていないならたぶん違うと思う。たぶん無神経な人であるだけだよ。)

誤解してほしくないんだが、才能とは社会で表現できて換金ができて初めて才能であり、それができなければ一部の身内を喜ばせるだけのニッチな魅力に過ぎない。
売れなかった才能は才能とは言えないと思ってる。才能とは必ず結果で測られるもの。売れなくても才能がそこに存在するのはたぶん間違いないことだが、結果を出せなきゃ社会的にはオカルトの域を出ない。才能と呼んではいけない。才能らしきものが存在する可能性がある、と言った方が正確。
才能は多くの場合は人を魅了するが、同時に同じ人から嫌悪感も湧き起こす。これは売れたとしてもそう。才能とは反社会的な性質を持つからだ。音楽にしろ、文章にしろ、工学的な発想にしろ。才能を理解するファンがある日突然アンチになる光景はよくある。
これ売れなくても同じ現象が起こる。才能らしきものが呼び込む負の現象。
換金できなかった才能を認めてくれる身内に、いずれ嫌われるんだ。必ず。身内がその才能に現実的に疲れてしまうからだ。ある日、訳がわからん困った人にしか見えなくなる。
そうなると売れなかった才能はただの自傷のナイフにしかならない。才能の攻撃性は自分に向かう。結局、本人は孤独で困窮した人生を送ることになる。

彼らを見ていると、このイルカのように見えてならない。

困窮した先には、同じような光景が現れる。
社会常識、良識、コミュニティというものに囚われた不自由な身であると諦めたとき、芸というもので周りを悦ばせようとする。
本来する必要もなかった芸をしなければならない。完全に主体性を失った先で、知性や才能を恐ろしくくだらないことに使うことを選ばなきゃならない。
このイルカさんのように。

もちろん、イルカがこんなことを考えていることはたぶんないと論拠もなく俺は思ってるので(笑)、どうでもいい。オカルトやムードには興味がない。
でも人の生き方には、もしかしたら近い状況があるんじゃないかとは思う。

この哀しい知性のことを美化し、挙げ句の果てにイルカを擬人化し、人間はこれになるべきと筆者はぶっ飛んだ結論になるが、そんなことをするほど多くの人間には才能はない。


才能とは、知性とは、その攻撃性を奪われずにサバイバルさせることが出来て初めて存在を許される。
受動的であることを選んだとき、知性は自傷へと進む。

受動的な知性なんてもの獲得したら、地球、終わっちまうよ。それは進化じゃなく、敗北であり退化だよ。