みんな違ってみんないい、訳がない

「みんな違ってみんないい」という言葉は、金子みすゞの有名な詩の一節。

 

この詩の一節を勝手に抜き出して、最近流行りの多様性を語る人がいるので、聞いたことがある人もいるだろう。

自己啓発セミナー的な胡散臭い講演でもこの話題は響きやすいのかよく語られる。自己肯定感を持ちましょうという文脈の中で。

 

正直、胡散臭さがぷんぷん漂うなと思っていた。拒否反応がすごかったんだよね。

 

だからこの詩をあらためて読んでみた。

 

こんな詩だ。

 

わたしと小鳥と鈴と

 

わたしが両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥はわたしのように、 地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴はわたしのように、 たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、 みんなちがって、みんないい。

 

 

 誤解がないように言うが、とてもいい詩だと思う。

とても文学的で、哲学的で、忘れていたものを気づかせてくれる。

 

でも少なくともこれは多様性を語る詩ではないし、自己肯定感をテーマにしているわけでもない。そんな安っぽいテーマではないと思うよ。

 

ここではこの中の一節、みんなちがってみんないい、という部分だけを抜き出して語る人たちのことを書こうと思う。

 

例えば、俺のように障害があり人並みのことがいまいちできない人間からすると、みんな違ってみんないい、なんて激しく胡散臭いと思ってしまう。

金子みすゞの詩では、わたし、鳥、鈴、という全く別な存在について対比している。そこには共通するものが何もない。

あるとしたら、「音を出す」という行為だけ。

わたしは歌う

鳥は鳴く

鈴は鳴る

それだけの共通点。

だからわたしはわたしで負けてないよっていう情緒を語ってるんだよね。

 

これが、同じ種類の存在であれば話は少し違ってくる。

鳥は違う鳥との関係性の中で、弱いものは食べられてしまう。

同じ群れの中でも殺されることがある。

鈴は人間が作る物であり、その性能や品質で値段に差がついてしまう。同じ鳴るという性能をとっても優劣がはっきりしてしまう。

 

そして、同じ種類の存在の間には「普通」という平均値が存在する。普通ラインから上と下が存在する。

人間だって同じだよね。

 

そこには、必ずしもみんな違ってみんないいわけじゃない。

俺と猫との関係性だったら、俺は猫にならなくていいし、猫は俺にならなくてもいい。

でももし俺が会社員だったとしたら、同期のA君や先輩のBさんとの間で違っていいことはあまり多くない。違っていてみんないい、というのは顔つきやネクタイの柄、ランチに食べているものくらいだ。

 

まして障害を持って生まれ、人よりも能力の低い俺のような存在は、みんな違っても自分がいいとは感じないんだ。同じ種類の存在の間では、平均値よりも上の人間だけがみんなちがっていいと言えるのかもしれない。

 

持っているお金、持っている人間関係、持っているバックグラウンド、持っている社会的地位、持っている能力、持って生まれた家庭環境。

当然のように人間はみんな違う。

だからといって、恵まれない者たちは、誰かと違って「劣っていても」いい、とは思えない。普通になりたいよ、当たり前になりたい。

 

多様性という言葉にさえ、胡散臭いものを感じるよ、俺は。

 

もし、本当に多様性というものがあり、みんなちがっていいという状態があるのだとしたら、

それは「役割がたくさん用意できる場所」があればいいねという夢のことだよね。

 

出来ること、出来ないこと、持っているもの、持っていないもの、それぞれの違いによって出せる結果が違ってしまう。

能力の違いや優劣によって自分が持つ役割があり、それによって待遇やお金に差がない社会がもしあるのだとしたら、多様性かもしれない。

みんな違っていいんだから。

 

高学歴の優秀な人間が集まる外資系企業の中で、誰かがゲイであることを受け入れるというのは別に多様性ではないよ。威張ることでもない。人種や国籍でも同じ。それは単なる認知と理解の問題であって。

 

残念だけどみんな違ってみんないいなんてことは、ありえない。あったらいいけど、ないよ。

スラムで生まれた発達障害の中卒の男と、恵まれた環境で育ち努力することを許されたお坊ちゃんと、違っていいなんてことは社会が許してくれない。多様性の話題にそれは絶対に出てこない。

 

みんな違って、全然よくないのだから、

自分の居場所を必死になって探そう。それは人生における戦い。戦争みたいなもの。

自分の尊厳を保てる場所を、泣きながらでも探し続けよう。

 

多様性なんていう強者の論理に負けちゃいけない。その多様性は、底辺にいる者たちをさらに追いつめていく。

白々しい裕福な人間たちが唱える多様性という言葉と、裕福な家の少女が地球温暖化を批判する光景と、俺は似ていると思うんだよね。