恋愛が苦手である

俺は恋愛が苦手である。

恋愛が不得意なのではなく、苦手。

 

娘のような年齢の弟子と地下鉄の階段を駆け上がる時、四角い曇り空が見えた。冬の始まりの空を見て、階段の途中で立ち止まりそう思った。

 

得意ではあるけれど、苦手なのだと。

 

20歳になったばかりの頃に、夜の街で生きていた女たちもそうだった。もっと後になって沢山関わってきた風俗嬢達もそう。

恋愛や男女の恋のあれこれは得意だけれど、一様に苦手にしている様子だった。

 

そんな女性たちはみんな美しい容姿を持ち、「おつかれ」というありふれた言葉をかけられただけでも、満面の笑顔で振り向いてくれる。桜が咲く季節、古城の堀に吹く風のように。

街を歩いていて突然イルミネーションが現れると、「わ、すごいよ」と言って、軽く俺の腕に触れ、早歩きで近づいていく。

電話をかけると、「もしもし?」という言葉からすでに元気で明るく。

「明日の夜、会える?」と訊くと、「ちょっとまって」とスケジュールを確認して、「大丈夫だよ!」と言う。たったそれだけのやり取りでも、誘ってよかったと思わせてくれる。会えない時でも、「〇〇日の夜はどう?」と違う選択肢を示してくれる。

楽しかった会食や、大変だった仕事の後で、必ずメッセージを残す。ありがとう、楽しかった、お疲れ様でした、苦しかったけどやり抜きました、うまく行かなかったけど次はがんばります、などなど。

2人でいる時間を楽しいものにしようとしてくれる。 

華やかで、もしかしたら威圧的なほどの美貌を持つ彼女たちは、いつも全力でコミュニケーションをする。楽しい、楽しみ、嬉しい、悲しいけど希望を持ってる、など前向きの感情を常に表現する。

 

ところが一部の女性達は、彼女たちを批判する。男に媚びている、裏がありそう、小賢しい、あざとい、ぶりっ子、などと。男を喜ばせようとする卑屈な女だと言われることもある。彼女たちが自立していない女だとひどいことを言う女も沢山いる。

 

彼女たちの本当の凄みは、情の深さにある。運命を受け入れようとする覚悟にある。うまくいかない人生の局面で、逃げ出すことはしない。

「わたしね、アキラが人殺しで強姦魔で女を山に埋めていたとしても引かないから言ってね?」と突然言うことがある。

あるわけがないんだが、そうだと言っても本当に引くことはないのだろう。地獄の底までついてきて、きっと浮上する時も一緒にいる。

 

しかし、しかしなのだ。

 

だからこそ彼女たちは恋愛が苦手なんだ。得意に振る舞えるけれど。

 

恋愛が不得意だけど、苦手ではない女性はそうじゃない。

 

意味もさほどないのに自立を気取る。駆け引きをしようとする。彼氏と距離を置こうと試みる。自分は自分、自分が楽しくなければ彼氏ともうまく付き合っていけないと言う。

よく言えば自然体、悪く言えば慣れ合った関係でいようとする。きっと当たり前の人たちは恋愛関係を夫婦関係に繋げることに何の抵抗感もなく、ごく普通の家庭を築いていけるのだろう。

 

恋愛が得意ではあるけれど、苦手な人たちはそうじゃない。

 

世間の当たり前を演じることができないのだと自分たちが気づくときが来る。

 

抜けるような青空の日と、土砂降りの日と、どちらかしか知らないんだ。どちらかでしか生きていけないと気づいてしまう。

なぜかって、彼女たちには「過去」という時間の履歴が抜け落ちているから。過去をなかったこととして切り離して今を生きているから。

 

当たり前の人生には、連続した時間が不可欠。連続した絶え間ない人生の物語がきちんと存在する。恋愛遍歴を、言えるか言えないかは別として話そうと思えば話すことが出来る。その時間の連続性がないと、他人、特に恋人との会話はあらゆる場面でバグってしまう。

 

そうなると、恋人は必ずこう言う。「19歳から21歳までは何をしていたの?」「なぜ22歳から30歳までのことを何も言わないの?」

興味本位ではなく、本当に不思議なのだろう。

 

恋愛が苦手な彼女たちは、その質問には答えられない。

答えてはいけないからだ。

 

記憶が欠落していることもあるし、わざと上書きしていることもある。ASDなどの障害がある場合も、記憶は都合のいいように書き換えられていたりもする。

精神病院にいたかもしれないし、風俗嬢だったかもしれない、愛人として文字通り飼育されていたのかもしれない、結婚していたけれど悲しい出来事が沢山あったかもしれない。

それを「物語」という形で人生の空白を埋める努力をしてきたのが彼女たち。

 

多かれ少なかれ、彼女たちは偽りの物語を持っている。

無いものを有ったという偽りはない。有ったことを無いという物語を持っているんだ。

 

恋愛が苦手な彼女たちは、いずれ立ち去る時が来る。

またこの記憶も新しい物語で書き換えられてしまう。

 

彼女たちと大恋愛をした男たちは、彼女たちが不誠実だと悪く言う。俺に飽きたのか、僕を弄んだのかと言う。

そうじゃない。

「私には、物語をまた編集するべき時が来たんだよ」と彼女たちは心で言う。どうしようもない女だと罵声を浴びながら。

また一つの時間を消去しようとする。

 

弟子とラーメン店に入る。奥のカウンターに並んで座って、つけ麺が出来上がるのを待っていた。弟子は鼻歌を歌う。何の曲かは分からない。

俺は生ぬるいお冷をちびちびと口に運びながら、カウンターの向こうのテレビを眺めている。

 

俺も、何度も生まれ変わってきた。その都度新しい物語を背負って。

 

それでも愛というものを信じているのは間違いないわけで。

 

 

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男の見苦しい嫉妬も、可愛らしいもの

今に始まったことではないが、男の嫉妬ほど見苦しく哀れなものはないなとつくづく思う。

 

1990年代にカリスマ的な人気を誇ったボディビルダーがいて、最近YouTubeでは過去の動画を見ることが出来る。俺なんかだと、面白いなあと思って眺めているんだが、コメント欄を読んで「またこれか」とうんざりしてしまった。

 

「ベンチプレスのフォームがダサいw」とか

「フォームが我流で、こんなもんかと思ってがっかりした」とか。

結果を残し一時代を築いた人にさえ、こんなことを言うのかと。フォームが我流だろうがなんだろうが、結果を出しているし20年以上経った今も人気がある。もっと言うと、それを言う男たちなど匿名のモブキャラに過ぎず、結果を残したわけでもそれで収入を得る能力があるわけでもない。

ただ、陰から吠えているだけ。しかも本人が亡くなっているのを知ってそれだ。

 

あるいは、最近服飾の世界で何かと露出が多い大御所の男性がいる。独自の世界観というか、基本に忠実なスタイルをまず心掛けろと説いてくれるのが人気がある人だ。

この人に対しても、本人に直接言うことなくヤフー知恵袋などスラムのような場所で「大したことがない」「古い」「当たり前のことしか言ってないのにもてはやすバカが多い」など、言う男がたくさんいる。

お年を召した方でネットを細かくチェックする人ではないだろうから、そういうことが言えるんだろう。

 

見苦しい。

簡単に「それは嫉妬だろ」と指摘するのは好きではないが、やはり嫉妬でしかないのだろう。

問題は、なぜそういう有名人や成功をした人に対する嫉妬が生まれるのかということ。

 

嫉妬心というのは、もちろん男女ともに存在する感情だが、特に男性の場合はそれが他人に分かりやすく伝わってしまう。男性は群れの生き物であり序列が出来やすい生態を持っている。社会的に生きざるを得ない存在であるせいか、男の嫉妬は恋愛などの閉じた空間ではなく、社会的に開かれた場所で発露される。だから、男の嫉妬は分かりやすくなる。もちろん恋愛で嫉妬することもあるだろうが、残念ながら社会的に弱者の部類に入る男に限られる。要するに暇な男だけだ。

 

男は、群れの序列で嫉妬感情を持つ生き物だ。

 

会社の同期が自分より先に昇進した、自分より年下の社員が役員から褒められた、部活の後輩が女子から人気がある、など、そこに「社会」があって、「男」がいて、「報酬や肩書という座標」があれば、「嫉妬」は必ず起こる。

 

もしそれが、

「高校の時の同級生が、乞食同然でインドを放浪しその様子をブログに書いている」ということであれば、いくら人気が出ようが男は嫉妬しない。というより嫉妬できない。

なぜならそこに「社会」や「群れ」が存在しないからだ。

会社を辞めた元同僚が、風俗店経営者として成功していたとしても同じだ。自分とは群れの種類が違う。住む社会が違う。だから嫉妬しにくい。せいぜい収入に対してだけだろうが、あまりリアルな嫉妬にはならない。

 

もし嫉妬に見間違えるような激しい悪口を言っていたとしても、それは嫉妬ではなく「軽蔑」を感じた時だけだろう。群れていない男が言う悪口は、軽蔑に由来することが多い。

 

先ほどのボディビルダーや服飾の専門家で例えると、嫉妬するのはその社会に属している格下の男性だと思って間違いない。

 

筋トレをするけど厳しい努力に耐えられず、いつも焦りと劣等感に苦しむ男。

アパレルの片隅にいるけれど薄給に苦しみリストラに怯える男。

 

わざわざ書くまでもなく、序列が下の男が上の男に激しく嫉妬をし、嫉妬なんかしてないよと言わんばかりに小難しい理屈を並べて「批評」という形を取るのは、男の哀れで滑稽な姿だね。

 

群れという社会がある以上、これは23世紀になっても続く光景だろう。

 

でもな、とふと思う。

 

逆に考えてみたら、23世紀の日本では「群れ」は存在するのかな、と。群れて社会を作らなければ仕事が出来ないのは、この数十年で終わるのではないかと考えたりする。

 

群れを形成しなくなった男に、嫉妬という感情は発生しにくい。

俺個人のことを言うと、やはり夜の世界で働いていたり、会社員として働いていた時は、嫉妬心を持つ自分を否定できなかった。序列が上の人間を憎むような感情が必ずあった。

しかし、群れという群れをどんどん離れて行って、他人に自分の職業名さえ説明するのが難しい仕事の仕方をしていると、嫉妬心がどういうものだったかリアルに思い出すのは難しい。他人の嫉妬を目撃して、ああそうだったなとぼんやり思い出す程度。皮膚を針で突き刺すような身体感覚としては、もう覚えていない。

 

嫉妬と同時に俺の中からゆっくり消えていったのが、性欲だと思う。

年齢の問題とか病気の問題だとは思えない。群れからどんどん離れひとりになっていくほど、「個人的」で「我を忘れるような」性欲を持つことが難しくなった。もちろんポルノの商売もしているので常にセックスが隣にある毎日だが、女性を見てセックスをしたいとすぐに思うことはない。卑猥な言葉を羅列したヘッドラインを書いているときも、性欲はない。

俺がまだ群れの中で誰かに勝とうとしたり、順位を争っていた時は、性欲がとても強かったように覚えている。性欲を抑えきれず、ありえない行動を取ることが多かった。大事なはずの商談をキャンセルしてくだらないセフレに会いに行ったりね。

 

男にとって、性欲すら社会性の中でしか存在しないものなのかもしれない。かなり乱暴なことを言うけど。

序列に晒されているときに性欲を感じるのは、まるで野生動物の群れのようで気持ち悪いけれど。でも2011年の東北の震災で大停電が起きた時、命の底から湧き上がるような性欲を感じた。俺も含めて人間は地球という野生の中で生きているんだと当時のブログに書いたのを覚えている。あの時期、溺愛していたMちゃんとのセックスはひどいものだった。このセックスライフについてを新しいブログに書き始め、それが初代の『ラブレスキュー』になったわけだけど。

男の性欲は、自分が考えている以上に野性的な何かで支配されているのかもしれない。

 

23世紀まで待たなくても、リモートワークが当たり前になり、そのうち会社との関係性も雇用関係ではなくなり、社会性の箱の外枠があいまいになっていったら、きっと男はセックスを頻繁にしなくなる。今でも序列が下の男たちは性欲に苦しんでも相手が見つからないというのに、そんな悩みさえなくなっていくのかもしれない。

男に完璧な自由を与えたら、多くは自宅で昼間で寝て、起きてカップ麺を食べてまた寝る生活をするのと似ている。群れなくなったら嫉妬どころか、クソリプすら書き込む気力はなくなる。

群れから離れていったら、性欲を行動のモチベーションにする人が珍しくなるのかもね。

 

性欲は、嫉妬心を生み出すような群れの存在があってこそ。

そう思うと、男の嫉妬も可愛らしい遊戯に思えてくる。見苦しいところがまた可愛いのかもね。

 

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幸福になる会話、不幸になる会話

人が羨むような仕事やポジションで、誰もが手に入るわけではない学歴や育ちがあり、ありとあらゆる言葉を知って使いこなすだけの知性があっても、不幸せさを表情に塗りたくったような女性を多く知っている。

 

東京の夜景を見下ろすようなすごい景色を眺めるレストランで、ふとした拍子に顔を出す不幸せ感。

朝起きた瞬間の、無自覚なため息が伝わってきそうなメッセージ。

世の中の期待外れの数々を背中に背負い、仕事に行く道すがら。

 

俺は不幸な女と時間を過ごすことには慣れている。なんてことはない。18歳からそれが仕事だったから。

しかし慣れているものの、疲れてしまう。知り合いでいることにさえ疲れてしまう。

 

その不幸せになってしまう理由というか、ささやかだけれど確実にある誤謬が見えている。でも、指摘するほどの人間関係ではないよなと思い、黙っている。そして俺もまた、最後には期待を裏切る行動をするしかなくなる。裏切るまでいかなくても、コミュニケーションの出力を絞り切って一緒にいることになる。最後には、丁重な態度でゆっくりと消える。

 

多くの人がそうやって接していれば、本人はどんどん不幸が表情に滲み出てくる。

 

きっと子供の頃は「おてんば」で「元気いっぱい」に育ったのだろうと想像する。

 

天真爛漫だと言われて育ったことだろう。

根暗だと言われたことはない。まるでアニメのキャラクターにいそうな女の子として育ったに違いない。

自分のことが大好きで、毎日笑って学生時代を過ごしたと思う。

 

でも次第に、本人は生きづらさを感じ始める。

他人とのコミュニケーションがことごとくうまくいかなくなる。些細なことで腹を立ててひどいことを言ったりする。大人げないなと思いながら、残酷な態度を取ってしまったりする。みんなが自分をバカにしてるような気さえしてくる。

 

多くは、天真爛漫な育ちゆえ。

 

人の話を聴くときに、必ず自分の意見を言ってしまう。

人の話を聴くときに、共感ではなく、話を遮って評論をしてしまう。

それが自立した女性だと間違って思い込んだのかもしれない。話を最後まで聞くことが全くできない。元気いっぱい自己主張をし続けてしまう。

 

他人との関係が元から苦手で、慎重に構築してきた人たちは、必ず主観を横に置いて話を最後まで聞く習慣がある。自分の意見を言おうと焦ることは絶対にない。相手が話すのを聴いている。

だから相手は話をするのが快適になるし、関係性を大切に扱ってくれる。

 

例えば人の話を聴けない人の特徴はこんな感じ。

 

 「コロナの自粛騒ぎで会社の状態が悪いんだよね。ボーナスが出ないのは仕方ないけど、来年の仕事が何もないらしい。仕事を取ってこいと社長が焦ってイラついてるし、最近すごく疲れてるよ。」

 

女 「それは仕方ないのでは?うちの社長は、こういう時に焦っても仕方ないと大きく構えているから、さすがだと思うわー。売り上げは下がってるけど内部留保もあるしそれも安心材料かもね。それに比べてあなたの会社は財務が弱いのでは?」

 

男 「もういいよ。寝る。」

 

 「もう寝るの?それじゃ、しゅきしゅき~愛してるよ~おやすみ」

 

男 「(きもちわる)」

 

これが繰り返されたら、いい加減縁を切りたくなるだろ。

俺はこういう会話を18歳から沢山経験してきた。中年女性たちの話し方を思い出すだけでもうんざりする。

 

なぜ自分の話をした挙句に評論をするのか。なぜ、まず「ほんと今は大変だよね」と言えないのか。もっと言葉を吐き出させるように促さないのか。

自分の話ばかりすると嫌われるのは、男も同じ。相手の話に自分の意見を挟んだから話が続かなくなるに決まってる。

 

人は、自分が話した言葉で納得したり説得されるもの。ひたすら言葉を引き出してくれる場所は、安全な場所。安全な場所で自分が自己説得されるほど話を引き出してくれたら、信頼と感謝しかない。

 

自分の意見や評論をするなら、その後なんだよ。

ここが安全だと認識してもらった後は、議論や評論はとても冷静で知的なものになる。だから話が盛り上がって長話になる。話が楽しい。止まらなくなる。もっと話を聴きたくなるし、もっと話したくなる。結論なんかなくていい。いつも刺激があって、楽しくて。

 

ガキの頃、中年女性と続かない会話にげんなりしたあとで、女友達や彼女と朝までコーヒーとドーナツだけで喋りまくっていた夜は数えきれないほどある。そんな夜は細かくは覚えていないけれど、楽しくて、またあんな夜があったらなと今でも思う。

 

朝まで続く楽しい会話のあとは、一つの言葉で着地する。

「ありがとう。話を聴いてもらって感謝してるよ。いつも前向きにさせてくれてありがとう。」

世界がとても前向きなところに感じて幸せになる。

会話っていいなと思う、そんな夜。セックスよりずっと刺激的で、いい。

 

別に励ましてもらったわけじゃない。解決策が見つかったわけじゃない。話をとことん聞いてもらっただけのこと。安全な場所を作ってくれたことに感謝をするものなんだよね。

もちろん相手にも同じ場所を提供したいと強く思うようになる。話の聴き方を上手になろうと努力する。だから、その人と疎遠になってしまった後で新しい恋人と出会ったら、もっといい関係に出来るようになっている。

 

「あなたはきっと、昔の女性たちが話し上手の人ばかりだったのね」と、俺も何度も言われたりする。

 

人生に幸福感を感じるかどうかは、人との話し方、関わり方に大きく影響される。

幸せになりたかったら、他人の会話を最後まで聴く方が絶対に近道。そういう人には、話を最後まで聴いてくれる人が集まってくるよ。

 

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