腹を決めなかったばかりに失う大きなもの

今から10年以上も前のスタッフから、最近突然LINEでメッセージをもらった。

「師匠、元気にしてますか?」

突然のことだったが、何年も前からLINEのアイコンはずっと見ていたので知っていた。

「元気にしてるよ」

「みなさんはお元気ですか?」

皆さん。誰のことだろう。死んだやつも数人いるし、行方不明もいる。縁を切った奴らも沢山いる。

こいつはいつだってそうだ。自分以外を「みんな」と呼ぶ癖で何度俺に怒られたのか。みんなという人間はいないんだぞと。

それは、ある初夏の夜に、神楽坂を意味もなく上に歩いて昇っている途中だった。

「元気だと思うよ」俺は面倒になって適当に言う。

正直、気分が悪くなった。それからLINEにメッセージがいろいろ続いていたが、既読にもしないで全部消した。当然、返事はしない。その夜、ベッドで眠りに落ちる頃には彼女のことはもう忘れてしまっていた。

関わりたくない。そう思った。

 

この元スタッフのSは福岡の出身で、彼女が20歳の時から22歳になる直前まで俺と一緒に働いていた。いかにも九州の美人という感じだった。小柄で、でもキリッとした顔立ちで。

出会ったのは彼女が20歳になる時のことだった。友人を通して紹介された。ある年の秋、汐留にあった安めのホテルのロビーで初めて会った時、彼女の荒んだ外見にびっくりした。

白いTシャツに、ダメージ加工でもないのにジーンズには穴が開き、履いていたレッドウィングのブーツは経年変化というよりただのボロ靴。男物に違いない黒のレザージャケットは手入れもされずに肘や袖口の色が落ちていた。髪には栄養がなく、顔は吹き出物だらけ。美人ではあるんだけど、オンナを一切感じさせない雰囲気を出していた。

 

「アキラさんですか?」と俺にかけてきた声はまだほんの子供の声だった。

ロビーの隣にあるカフェでコーヒーを飲みながら話をし、30分後には一緒に仕事をしようということになった。引っ越しは最短でいつ出来るか訊いたら、答えは明日、だった。

いや、今住んでるアパートとかの手続きもあるだろ?住民票も手続きしたり健康保険とかも。仕事もあるだろうに。俺はそう言った。

するとSは言う。家はないし、住民票とか何か分からないし、健康保険証は持ってない、仕事もない。

ああ、そうかと俺は思った。こんな奴らは珍しくない。どんな風に生きてきて20歳になっているのか、この時はまだ訊かないことにした。どうせろくでもない。慌てて聞くこともない。

では、明日、東京駅で待ち合わせるかということにしたら、Sはこのまま明日までどこかで時間つぶして直接駅に行くと言う。ホームレスなんだろう。分かったということで、Sのためにそのロビーのあるホテルのシングルを予約してやり、明日の朝、またここに俺が迎えに来るということにしてその日は終わった。

次の朝、Sは久しぶりにまともな場所で寝たかのように、すっきりとした顔になっていた。小さな風呂のはずだが、二時間も浸かっていたと喜んでいた。

 

田舎に引っ越してから、風俗の仕事をしたのはほんの3ヶ月間。その間、俺の自宅に住み込んでいた。

近くでSを見ていて感じたのは、生活習慣のありとあらゆることが何も身についていないことだった。箸を使えないことに唖然とした。持ち方が悪いんじゃなく、使えない。だからいつもフォークで刺したり、茶碗にがっついて食べる。もちろん日本の総理大臣が誰かも知らない、地図上で東京がどこにあるのか、福岡がどこにあるのかも言えない。九九も言えない。自分の名前は漢字で書けるが、本を読むほどの国語力もない。メールの自動変換すら間違えている。句読点の打ち方の知識がない。

俺は呆れ果て、そんなことを一つ一つ教えていった。まるで狼に育てられた少女を人間社会に適応させるかのように。

 

よく、仕事がない夜は自宅でSとメシを食いながら話をした。俺がそろそろいいだろうと思って訊いたのは、過去の話だった。 

Sは過去の話をすぐには言おうとしなかった。そんなことを聞きたいと思われることが面倒臭いというように。

でも断片だけを言わせてみると、それだけで胸焼けがしそうだった。父親は犯罪者で物心ついたときには、何度も服役を繰り返していた。母親はたぶん精神障害者で、中学生だった娘を働かせ、金を奪って生きているようなクズだった。

Sは年齢を誤魔化して、いろいろなバイトをした。コンビニもそうだし、スーパーの鮮魚売り場で松前漬けをパック詰めする仕事もした、そして、年齢がバレるとバイトを辞め、どうしても金が稼げないときには出会い系サイトを使ってエンと呼ばれる売春行為をした。年齢を言うと犯罪だぞと言う男もいたけど、多くは「いいのかい?いいのかい?」と喜んで食いついてきた。

売春は犯罪だと知っていたけど、あり得ないほどの大金が手に入った。一日3000円も母親に渡せば喜んでいたので、残りは全部自分がもらった。一日に数万円もの金が残った。それをお年玉用に昔作ってもらった通帳に入れ続け、高校を中退する17歳の夏には1000万円を超える残高があったという。

 

もちろんその物語が真実であるかは分からない。もしかしたら、いや、かなりの確率でそれは近似値のような物語にすり替えられているんだろう。金を稼いだのは援交などではなく、もっとなにか、暗い行為によるものだったかもしれない。酒を飲みながらの盛った話だったのかもしれないが、そう遠くはない、やはり近似値だったと思う。

 

・・・高校を中退するとき、父親が刑務所から出てきてずっと家にいた。刑務所で何を反省してきたんだと言いたくなるほど、性格も何も変わっていなかった。昼間から母親と酒を飲んではセックスをし、母親は娘がいても遠慮なく喘ぎ声を出すような有様だった。母親は娘が家にいるというのに大きな声で中出しをせがみ、そして妊娠していた。妊娠がわかる頃にはまた父親は刑務所にぶち込まれていた。

 

Sは小さなリュックに服と食べ物を詰めて、財布と通帳を持って東京へと向かった。母親には知らせなかった。18歳になろうとしている時。

 

東京で俺と出会うまでの2年と少し。どうやって生きていたかは詳しくは分からない。ただあの成りを見ると、ろくでもない生活をしていたのは間違いない。いつの間にか健康保険証も切れてしまい、住民票も九州に置いたまま。そんな状態では住む家もないはずだ。金だけがあっても、自由がほとんどないのが日本という国だから。

 

Sは風俗の仕事を3ヶ月でやめ、昼のまともな仕事をするようになった。それは美容関係の物販の仕事だったんだが、夜のスタッフたちから可愛がられていたSは、最初から仕事がうまくいった。営業の仕事にありがちな「売る相手が探せない」っていう状況はなかったと思う。次々に仲間が仲間を呼び、色んな人達が協力をしてくれた。俺ですらSから化粧水や乳液を買ったほどだ。決して安くはない高級ラインの化粧品だった。

客からは、Sの可愛らしい九州弁が人気だと聞いた。また会いたい、また九州弁聞きたいってね。

当然、風俗の仕事と遜色ない収入になった。生まれて初めて社会保険も厚生年金も手に入った。住む部屋だって簡単に見つかった。広くはないが、築浅の綺麗なアパートで。

 

俺は教えたんだ。

この今の恵まれた環境はおまえの実力なんかではなく、おまえを思ってくれている仲間たちの気持ち一つなんだぞって。普通はおまえは化粧品なんて買ってもらえる営業センスなんかないんだ。だからこの環境を大切にして、受けた恩を返すように大切に每日生きろよって。だからこそ、仲間のことを「みんな」なんて呼ぶのはやめろと叱っていた。みんな、じゃない、一人ひとりの心があるんだって。

その時はとても納得するような素振りをしていたんだけれど。

 

でもある日、俺のもとに不動産屋から連絡が入った。俺が保証人になっているSのアパートなんだが、Sが家賃を払わないまま、連絡がつかなくなっていると言われた。

必死に俺や仲間が探したけれど、結局見つからなかった。せっかく就職した会社も退職になってしまった。俺は未払いの家賃と立ち退きの費用を負担し、終わった。少しだけ増えていた家財道具は、全部俺の狭い家に押し込んで保管した。

 

正直、仲間たちの失望と怒りは俺に向けられているのが分かった。俺は何度も何度も謝った。それぞれのスタッフが、それぞれ大切にしている人たちにSを紹介し、そして顔に泥を塗られたんだから。

「もう二度と紹介なんてしなくない。凝りました」

古いスタッフにそう言われた時、俺は地面に頭がつくほどの申し訳無さでうなだれた。

 

そんな失望のある日、Sからメールが入った。

「引っ越したんで。すんません。」と書いてあった。

「やっぱりウチのともだちが、そんな男の人に上手く利用されんなって言うんで、そう思っちゃって。お世話になりました」

 

そんな男の人?利用?・・・まあ、そんな言われようは慣れている。でも、俺は利用したんだろうか。俺はそれだけの利益を得たんだろうか。仲間たちは、彼女を利用しただろうか。化粧品を売って俺が中間マージンでもピンハネしただろうか。

俺はメールの返事はしなかった。もういい、そう思った。

 

それから俺はいろんな事情と失敗が重なり、なつきのcocoonに世話になった。僅かな金にも事欠くような惨めな生活をするようになっていて、Sのことはすっかり忘れてしまっていいた。

 

・・・神楽坂を歩いている時に俺のiPhone7にメッセージが入る。

「みなさん、お元気ですか?」

ひどく気分が悪くなった。その夜は返事をしなかったが、その二日後もメッセージが届いた。

 

「あのとき、師匠のもとにいるべきだったと思ってます。」

そうあった。

「師匠が言うとおりに腹を決めて、もっと必死になるべきだったと思います」

 

俺の返事を欲しがっているのがわかったけれど、結局返事はしないまま、そのメッセージアプリのアカウントをブロックしてしまった。

Sが今どんな生活をしているのかなんて、俺は何も知らない。金持ちの男と結婚したのかもしれないし、うまいこと商売かましてるのかもしれない。

 

師匠のもとにいるべきだった、なんてセンチメンタルになられても困るんだよね。

俺は、自分を信じてくれて、腹を決めてついてくるやつのためなら、損でもするし、献身もするよ。だからSにもそうした。でも結果は、誰か会ったこともないやつらに想像だけで批判をされ、俺の信用はガタ落ちになり、仲間たちの信用も失墜することになった。それで、軽くメールだけで逃げてしまった。

まずそこに対して謝るべきであり。

いるべきだったなんて言う資格もないし、本質を今も分かってない馬鹿でしかないんだろう。

 

それを聞いて、ある元スタッフのHが言った。

 

彼女の今、何やってるか知ってるよ、と。

 

既婚の男と不倫してるよって。九州に帰ったけど結局居場所もなくて。アキラを批判してくれた友達も別に何も人生に貢献してくれることもなくて、むしろ陰口を叩くだけの存在になって。

その逃げ道になった男は既婚者で。しかもそれは昔のアキラのような男だよって。

 

アキラのようなというのがどんなことか分からなかったが、ため息しか出なかった。

あの時の、なつきと愉快な仲間たちの世界は、まともな世界から弾かれたロクデナシの居場所だった。何もできないやつらが集まって力を合わせれば、エリートさんたちよりもずっと成功ができると信じていた。

もちろんいかがわしい部分もあったし、ガラの悪いやつらも多かった。世間の評判ももしかしたら悪かったし、俺は「なつきに絡む面倒くさい男」として知れ渡っていた。

 

でも、そこで腹を決める覚悟もなく、安全な場所に逃げてまた「それっぽいこと」を自分一人でしてみたというわけだ。

もちろんそんなものが上手くいくわけもない。

 

不倫をしてるのが本当かなんて俺は知らないが、どうでもいい。お前に貢献する気持ちは一ミリも残ってない。

 

元スタッフのHが俺に言ったのは、

「最近、またこの近くに戻ってきて住んでるんだよ」

ということだった。

 

なぜ。そんなもの場所の問題ではないというのに。あれは、「みんなの」心の寄せ合いだっただろ。そして、失ったらもう二度と手に入らない居場所だっただろ。

 

あの時はごめんねって、そう一言言うだけでも違うというのに。